サチ子さんの日常 第一章

サチ子さんの物語をお話しする前に、予め申し上げておきますと、サチ子さんの本名は、もちろんサチ子ではありません。サチ子という名前は、自分の不幸を中和するために名付けられました。そんな婉曲的な手段を講じたのも、彼女の人生は、誰かに誇れるほど不幸なものではなかったようです。

 サチ子さんの町に、五十年ぶりに天燕と名付けられた台風がやってきました。毎年の台風が何故五十年に一度なのか、その台風の名前をつけたのは誰なのか、サチ子さんには永遠に分からないかもしれません。

 見慣れたYouTubeのアイコンを開くと、サチ子さんがずっとチャンネル登録しているブロガーが1年ぶりに動画を更新していました。サチ子さんは慌てて、その動画を再生しました。画面越しに見えるブロガーも、動画の内容も、ブロガーの後ろに置かれたテーブルの上のコスモスも、どうやら一年前と変わっていないようです。この1年で気持ちの整理がついたと、ブロガーはあっさりと視聴者に謝罪し、これからも更新していくと話しています。

 サチ子さんは手に持っていた、向日葵の種を頬張って、一生懸命噛んでいます。欲張りなハムスターのように頬を膨らませています。一生懸命飲み込むと同時に、動画の中で侃々諤々の議論をしているブロガーさんがうらやましくなり、1年をかけて整理しなければならない膨大な気持ちが羨ましくなりました。油でべたついた手を殺菌用ウェットシートで躊躇いもなく拭いてしまいました。サチ子さんは無情にもプログレスバーが真ん中に辿り着いた映像を消しました。
 毎日多くの時間をYouTubeに費やしているサチ子さんは、数年前、あるメイクアップブロガーに夢中になっていました。美人というほどでもなく、化粧技術も一流というほどでもないのに、彼女は三日月のように笑っていました。サチ子さんは、彼女がきらきらしたアイシャドウを手の甲に指でつけて、お宝のように手の甲をレンズに近づけ、「ほら、この色、きれいじゃないですか」と目を輝かせるのが大好きです。そして長年の親友のように、半分お勧め、半分強制的に、自分が今年のブラックフライデーで必死に戦って得たものをあなたに教えてくれるのです。その度に、あなたも同じような気持ちで、「リンク送ってよ」と言えばいいのです。彼女はそれを子供のように喜んで、次の数秒後には、あなたのチャットボックスの下に文字列と数字で規定された緑のリンクを送信します。

 ところが次第に、そのブロガーは人気になり、視聴者からメイクの仕方を批判されるようになりました。彼女はその言葉一つ一つを真摯に受け止め、動画を更新する度にメイクアップに関する勉強をして、化粧も上手になって、チャンネルを立ち上げた頃に比べて随分と綺麗になりました。

 しかしサチ子さんは、この頃になると彼女の動画を観るのを辞めてしまいました。サチ子さんはただ、彼女が手の甲に描く、あの指の優しい軌跡を望んでいるのです。これ以上彼女の動画を見なければ、満足気な表情で笑いかける1枚のきらきらした彼女の絵を思い描き、記憶の中に閉じ込め続けることができる気がしていました。

 サチ子さんの週末は、不純物のない蒸留水のように退屈でした。子どもの頃から夏休みが終わって二学期の始め、学校に登校すると先生たちから決まって聞かれる、休みの間は何をしていたのかという質問の度に、サチ子さんは大きな制服の中に身を隠したくなりました。ところがある日、実際には、先生たちは生徒が休みの間に何をしていたかなんて、気にしていないということに気付きました。先生たちは成長期で著しく顔立ちが変わる生徒たちを識別できるように、休みの間に顔を合わせなかった生徒に声をかけるきっかけが必要だったのだと気付きました。それからサチ子さんは、ようやく制服から顔を出して息を吹き込むことができ、先生に聞かれると、気まずそうに笑って堂々と言うことができました。

 「いや、何もしてませんよ」

 サチ子さんの返答を聞いて、いつも何人かのクラスメイトが袋に入った飴玉を振ったような声で笑い、先生も微笑んで、時間を大切にしなければならない、人生は有限なのだから有意義に使うべきだと、誰も気にしないような教訓をサチ子さんに話しました。

 でも、この週末は少し違います。発端は、サチ子さんが饅頭を買いに饅頭屋へ出かけた時のことです。饅頭屋のそばにある花屋の前を横切る際、何気なく視界に入ってきた百合の花束に惹かれました。サチ子さんはそれを買って花束を手にしましたが、どうやって持てばいいのか分かりません。百合を胸に抱いていると、贈り物だと勘違いされたり、どこかの患者さんへの見舞いだと勘違いされるのではないかと不安になりました。思考を巡らして悩んだ挙句、サチ子さんは颯爽として、その百合の花束を右手で握りぶらさげて、街を歩き始めました。

 そのとき、街角に見覚えのある人影が現れました。サチ子さんが夢の中で何度も刺した人、元カレさんです。百合の花を逆さまにぶら下げたサチ子さんを見て、元カレも大人らしい微笑を浮かべてサチ子さんに声をかけてきました。サチ子さんは、犬のケンカ映画のように、元カレの横顔を百合の花束で殴りたいという衝動を必死に堪えていました。まるで元カレの同級生で、大人のベタな会話の素振りを一生懸命演じました。結局、元カレさんは、終始当たり障りない様子で振る舞うとその場を去りました。残されたサチ子さんは、まるで今のサチ子さんを立ち寄らせる為にあるような屋台に行って、にぎり餅を一個買いました。サチ子さんはさっき買った饅頭を食べ、にぎり餅を食べました。乾いた喉をプラスチックのコップに入った水で潤していると、あることに気が付きました。元カレと話していた時、百合の花束を大袈裟ではないものの、繊細に大切そうに抱いて、出来れば、幸せそうな微笑みを浮かべていた方が、小さな挽回になったということに。サチ子さんは、百合の花束を駅のゴミ箱に捨てました。サチ子さんの家では猫を飼っています。だから、百合の花を生けるにはいきません。

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