広告ランナウェイ

 マクドナルドの「M」

 あの黄色く大きなアルファベットが地下鉄のホームの売店横に置かれている。駅はどうして許可したのだろう。金さえ払えば何処にでも何でも宣伝出来るのか、俺は酷く資本主義に苛立ちながら、Mを横切ってエスカレーターで上にあがり改札を出た。

 表に出ると冷たい風が俺の鬱憤を攫う。太陽はすっかり沈んでいる。商店街では星野源が流れている。あの無害な声とメロディーが俺の心を締め付ける。何一つ批判の余地が無いほどに滑らかに研磨され、世間に受け入れられたその存在は、「優しさ」を定義付ける。ああもうやめてくれ。もう沢山なんだ。余りにも、余りにもじゃないか。考えることを放棄して型にハマれそうだ。頭を柱にぶつけたくなる。オールイワンキットの宗教は俺を罪の淵側へと急き立てる。それに抵抗するように、イヤホンを付けてSpotifyでPinkFloydをシャッフル再生する。目覚まし時計の音が俺を一つの観念から解放していく。

 顔を上げると、2階と3階の連絡通路の表に掛けられているアーチが、全て、Mになっているのに気付いた。目頭を摘んで、もう一度凝らして見つめた。だが確かにマクドナルドのMがバルーンで繋がれている。一瞬、自分の目を疑ったが頭を振って冷静を保った。俺の悪い癖だ。すぐに複雑な方へと思考を巡らせてしまう。マクドナルドが街を巻き込んだ広告を行っていたとしても別におかしいことはない。しかし、ポスターではなく、ロゴだけを街に無作為みたく設置するとは、前衛的で面白いではないか。頬が緩むのを感じながら視線を落とすと、床のタイルの柄も例のMになっていた。昆虫の死骸を避けるようによろけながらMを躱わした。流石のマクドナルドもそこまでする筈が無い。何かおかしな幻覚に囚われているのか。周囲の人らはこれらのロゴに目を奪われることなく、潔く踏み絵を行うようにMのタイルを容赦なく踏んで歩いている。

 早足で商店街を抜け、開けた通りに出る。薄汚れた緑の時計台、支柱とそれを囲むベンチ、そのすぐ下を無造作に歩く鳩たち、スカートを翻しタピオカを持つ女子高生、早足で帰路に立つ黒マスクを着けたサラリーマン、肩を寄せ合い髪を汗で濡らした部活終わりの学生。定点と不均一に動く日常のワンシーン。いつも目にする必然ではない規則こそが日常で、生の実感なのかもしれない。

 なのに、皆が鞄にMのキーホルダーを付けている。俺は自分の鞄をチェックした。黒いビジネスバッグに不釣り合いで、身に覚えのないMが揺れている。触れるとプラスチックの質感があった。

 駅から住宅街へと続く連絡通路迄の道の途中には、幾つもの店が並んでおり、その中にマクドナルドもある。テリヤキバーガーのセットを注文して、コーラで流し込んだ。満足感はあったのだと思う。店を出て周りを見渡すと、Mのキーホルダーは消えていた。俺は先程の商店街まで小走りで戻ってタイルや二階の手すりを確かめた。Mは消えていた。

 良かった。これで、心療内科へ行く必要も無くなった。

 家路に着いて家のすぐ側にある公園を横切る時、滑り台の下に銀色で一口齧られたりんごが落ちているのに気づいた。夜の中で街灯の光を反射させていたからひどく目立っていた。気にしないようにして、家に帰って鞄とスーツを椅子に掛けた。ベッドに横たわると腰にゴツっとしたものが当たっているので、毛布をめくって取り出すと、Appleのリンゴがあった。

 流石にiPhoneやiPadは買えない。充電器でも買って様子を見よう。銀色のリンゴを机に置いて、眠りについた。

 目覚めると、机の上のリンゴは化粧台程の大きさに膨れていた。触れるとステンレスのひんやりとした冷たさがある。拳でノックするとカンカンと響く。両手で持ち上げようとしたが20キロはあるようで、息を漏らしながらゆっくりと下ろした。シャワーを浴びて、セブンイレブンに向かった。純正品の充電器を買って家に帰ると、リンゴは消えていた。

 粗方の予想はついていたが、これで終わりではなかった。BMWのエンブレムが壁に、つみきで作られた無印良品の四文字が机の上に転がり、赤い基調の直方体に白い文字でUNIQLOと刻まれたブロックが下駄箱の上に飾られている。やがて数日後には、数え切れない、企業のロゴをモチーフとした物体が、俺の身の回りを囲むようになった。やがて、貯金を使い果たし、家賃を支払うことも出来なくなった。電気が止められた夜、ネカフェで一夜過ごした俺は、池にある小屋のベンチの端に座って、朝日を待ちながら途方に暮れていた。クレジットカードや消費者金融が俺の脇を固めている。

 やがて黄金色に池を照らし、屋根の隙間を縫って朝日が差し込んできた。随分と喉も渇いていた。口を開けて日差しを飲もうとした。フワフワとポーっと意識がボヤけて、身体が柔らかくなるのを感じた。目を閉じて、体が溶けていくような感覚にただ身を任せていた。背中を預けていた木の柱と溶け合うのが心地よかった。

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