月の石――Portrait

 風が顔に当たる。季節が涼しくなってきたなと思う。

 ただでさえ容易に速力が出せる電動アシスト自転車を、さらに全力で漕いで走っている。エネルギーが空回りしている。それでも「気持ちが急いでいるんだから自転車もそれに合わせるんだ」と僕は猛スピードで漕いでいた。

 高校一年生のときに通学のために電動アシスト自転車を買ってもらった。坂道の多い通学路を一時間かけて毎朝登校するというのは普通の自転車では厳しかった。初めて「電チャ」に乗ったとき、ペダルを踏むと、ほんのわずかな力を入れただけで途端に体が前へもっていかれた。その感覚をよく覚えている。まだ漕ぎ出してもいないのに自動的に前に進む感覚に新鮮な驚きがあった。おしっこが漏れそうなジェットコースターの浮遊感、あれに近いものを感じた。

 電チャは上り坂を立ち漕ぎしないでいい。座ったまま、片手で運転して坂を登ることすら可能である。高校の通学路に傾斜が急なかなり長い坂道があった。普通なら苦労して登っていかねばならないところをスイスイと上がっていける。でも、バッテリー残量がゼロになると乗っていられず、まるで石化したように自転車が重くなって、立ち漕ぎでもビクともしない。そのときは自転車から降りて、引きずるように自力で押しながら坂道を登っていかねばならなかった。

「原付やん!」

 高校入学当初、クラスメイトの一人が言った。

 校舎の正門を出ると、「◯高」坂、と高校の名前を冠して呼ばれている坂道があった。途中に昔ながらの駄菓子屋などがあり、学校の最寄り駅まで続いている。その坂の途中で、入学してすぐの頃にクラスの男子数人で放課後の時間を過ごしていた。みんなが電チャを珍しがったので順番に貸していった。原付やん! そのときの一人が言った一言である。大阪弁のイントネーションで放つ「原付やん!」の陽気な、振れ幅が大きい感じ――

 遅刻しそうなギリギリの時間に寝癖のまま登校することが多かった。ただでさえ速い電チャを全力でかっ飛ばし、でこぼこ道もかまわず車体をガシャン! ガシャン! といわせて常に最大スピードで走るので、電チャは一年で壊れてしまった。

 自転車が壊れたことを父に告げなければならず、そのとき母に、慎重に話をもちださないと逆鱗に触れるという忠告を受けた。母から後に聞いた話では、当時、実家の家計は苦しかったそうである。

 ……ところで最近、僕は『エヴァンゲリオン』を観た。有名な作品だが今まで観たことがなかった。こんなに面白かったのかと圧倒された。

 でも、よく思い返してみれば少し観たことがあったのだった。

 全く忘れていたが、たぶん中学一年か二年くらいだと思う。オープニングの主題歌に興味があって、それをフルで聴きたくて動画を見ていた。音楽に合わせて作中のシーンがパラパラと映っていた。その中で、主人公の男の子が手錠を何重にもかけられて司令官の前に立たされている、という場面をちらっと見かけて、あとそれから、主人公が美少女に平手打ちを食らう、という場面もあって、なんだかそういうのは重苦しく感じ、シリアスな雰囲気に抵抗があったので観ようとしてやめたのだった。

 電チャが壊れたことを父に報告した――それは、ちょうどこのときちらっと見た、主人公の男の子が司令官の前に立たされているシーンと、僕の中でおのずと重なっていたのだ。

 父の書斎、仕事部屋。本棚。いかめしい重厚な全集が並ぶ。魔術書みたいに。

 パソコン、周辺の機材のカチカチと点滅するランプ。

 父の椅子は異様に高く聳えて見え、物々しく立ちはだかる。

 塔であった。

 頂点に鎮座する化身は父で、遺跡のように硬化した顔貌の陰影、威圧的な重苦しい表情が彫像のごとく固まっている。

 父は、家から学校までの間の往復距離を、三年間の登校日数で僕にかけ算をさせた。そして、赤道の距離をその数値で割ると、計算結果をパソコンのモニターに表示して、小数点以下の続く長い数字の列を僕に見せた。

 もし自転車を三年使い続けていたならば、地球を四分の一周できた。

 という事実がわかった。

 にもかかわらず、それを一年で壊した僕は――

 雷が落ちた。裁きだ。お前は必要ない。地球を征服しようと謀る化身。僕は配下? でも任務をまっとうできなかった。四分の一にすら届かず。しかも神具を自らの過ちで使えなくしてしまった。

 ……

「原付やん!」

 ――あの大阪弁のイントネーション。陽気な、振れ幅の大きい感じ。

 波の振動、明るさ。

 あのとき彼の発した「原付やん!」の一言は今でも僕の脳裡に響いている。

 サウンドトラックとしてリピートしている。

 彼自身の人柄は剥ぎ取られ、ただの音の塊になった〈大阪弁のイントネーション〉のサンプルとして、僕のなかで何度も再生されるのである。

 大縄跳びの両端をそれぞれ持って一方がもう一方に向け縄を揺すぶると波を打つ。

 心電図の波形みたいに。

 そのような大仰なリズムで、あのイントネーションに乗せて「原付やん!」の一言が発される。真っ直ぐ生きるビートを刻む波々と振るわせ快活に突き抜ける。男の子が女の子に近づく平手打ちを食らう司令官の前に立たされる――エディプスコンプレクス? それはしかめっつらをしている。こわばった表情を、しまいに大笑いが溢れる、という感じで、明るく抜けよう。あの陽気なイントネーションに何かしら憧れを抱いているらしい。

 ――今乗っているこの電動アシスト自転車は、母のものである。今は、自分の自転車を持っていない。

 買ってもらった自転車を一年ばかりで壊してしまったが、結局そのあとすぐに二台目を買ってもらうことになった。その代わりに父との契約で、それまで父の家事だった、お風呂掃除と洗い物とゴミ捨てが、僕の当番になったのに加え、アルバイトをしなければならなくなった。地元に昔からあるカラオケ店でバイトをすることにした。

 ところが、その直後に父は明石に単身赴任となり、僕は父の監視から逃れて、課せられていた当番を次第に怠けるようになった。お風呂掃除も洗い物もゴミ捨ても、後でやろうやろうと思っているうちに気がついたら母がやっていた、ということが多くなった。アルバイトは頑張って続けたが、そうして父との契約は自然消滅していった。

 ……

 僕は関東の大学に進学し、十八歳で故郷を離れ、一人暮らしをすることになった。

 正月に帰省したときに実家で父の顔を見ると、もう父の表情はスッキリしていて、遺跡のような陰影は蒸発したようだった。

 あの威圧的なオーラは白紙に戻ったのだった。

 自転車から降りて押しながら駅舎の階段下をそれらしい人影を探していると、公園のベンチにHの姿が見つかった。膨れ上がった大きな買い物袋を両脇に抱えている。今日は彼から焼肉に誘われて来た。いつもの喫茶店で作業していると「焼肉するけど今からどう?」とLINEにメッセージがあって、返事をしたあとすぐに通話がかかってきて、喫茶店を出て家に向かった。

 ベンチの方へと自転車を押して行った。目が合い、彼は手をかざした。こちらも手をあげて合図する。

 買い物袋を自転車のカゴに乗せ、歩きのHに合わせて、自転車を押しながら家までの道をしばらく歩いているうちに、駅からそう遠くないはずなのだが、いつのまにか人里離れた秘教的な雰囲気の場所に行き着いていた。家々の一帯は低まったところに寄り集まっていて、その一帯を、海が陸地を取り仕切るように、幹線道路が囲んでいる。集落のような一帯は外の環境から自動車の走行音で遮蔽されており、俗世界から切り離された秘境的な地と思えた。

 Hとは中学の同級生である。

 短髪の黒髪に視線を注ぐ――普通の若い男に見える。

 立ち並ぶ電灯の白い光が黒髪を頂点から照らす。

「      」と聞かれる。

 うん、と声に出して頷いてから、なんとなく思いつくことを答え、またいくつか軽い質問があってそれに答えているうちにポンポンと会話が進んで、それがいったん落ち着くと、歩きながらHが独り言を空中に並べるみたいに話すのを黙って聞いている。Hは一緒にいてラクだ。

 もとは地元のヤンキーたちとつるんでいて、中学時代の彼はけっこう暴力的な感じだった。図書室に行く廊下の途中で、口の端を切って血が出ているHが、倒れていたというか寝転んでいて、血が出て倒れていたのではなく、怪我をした状態のまま何をするでもなくただ寝ていた、という暇した姿に遭遇したことがある。……誰々と喧嘩した、相手が学校にナイフを持ち込んでいた、などと噂が生徒たちの間で広まったが、僕はその現場を見たのではなかった。空気のクッションのように「暇した姿」に当たったのである。

 成人式の日、鮮やかな袴に身を包み、よく焼けた褐色の肌に派手にブリーチをかけた髪を逆立てたHの姿を駅前のロータリーで見かけたことがある。――その日は粉雪が降りしきるほどの寒い日で、純白の袴の上から紺色のコートを着ていた。僕は何か急いでいて、滑らないように足元に気を払い、ローファーをカッカッカッカッと鳴らしながら駅のホームに向かっていた。不良の男女が集まっていて、かん高い声が人けのまばらな駅の構内に響くなかに、Hがいた。たぶん改札を出てすぐのスーパーで買ったと思われるパックの寿司を、立ったまま食べていて、Hもゲラゲラ笑っていた。そのとき、彼がプラスチックの透明の蓋を受け皿に、手掴みの寿司を醤油にひたす瞬間を見た。

 かに味噌の軍艦だ――と瞬間的に思った。

 ……

 電車に乗って、ちょっともたれかかる姿勢をとり、反対側の座席の窓を横向きに流れる空が、溝(みぞ)のように黒く見え、その流れをしばらくぼーっと眺めていた。トンネルに入って塗り潰されたように窓が真っ黒になり、自分の姿が映り込んだ。まだじんわりと、かに味噌の軍艦が電灯の白い光を浴びて浮かんでいた……

 暗かったので遠くから見てわかるはずはない。

 Hが手に掴んでいたもの――それがふと何に見えたか。理由はないのだろう。第一、僕は急がなければ電車に間に合わなかった。

 それにしても、成人式の日の夕方、もう暗くなる時刻にあんな早歩きで、どこに行く予定だったか。

 ――やけに閑散とした駅

 ――粉雪が降りかかる

 ――何かに向かって急いでいた

 周りのヤンキーたちは、そのときいたかどうか――閑散とした駅にかん高く響く声、という記憶は曖昧かもしれない。しかし自分はやけに急いでいて、そして確実に、

 かに味噌の軍艦 と瞬間的に言葉が浮かんだ。

 それはパラパラと粉雪が降りしきる駅を、転ばないように足元に気をつけて歩いていたときだ。

 このことと、手掴みで醤油にひたすHの姿はつながっている。しかし、ヤンキーたちが集まっていたのはもしかしたら別の日で、袴姿ではなかったのかもしれない。あの日、彼は一人だった?

 確実にHはいた。粉雪の中を早歩きに横目で見た。絶対だ。かに味噌の軍艦は、じゃあ何――想像の中で視界がぼけたレンズになり、焦点の合う部分はレンズの縁にわずかに残っているばかり。中心に向かっていくにつれ、視界はボワッとしてくる。立ったまま寿司を手掴みで食うHの姿が、ややぼけて、レンズ越しにある。そのボワッというのを、

 ん ん と、今のHの姿に嵌め込もうとして、でもピッタリこない。空気の塊に跳ね返される。

 二十歳の頃の彼の派手な襟足と今の黒髪の間に齟齬がある。

 Hの視線の向かう先。彼には常に虚空を見つめているようなところがある。あらぬ方向への未来の到来を待機しているかのようである。その方向の横から割り込んで、記憶の欠片となった輝く襟足を、黒髪に重ねて昔のHの姿を復元しようとするが、

「      」

 ピッタリこない。空気の塊に跳ね返される。

 Hは空気のクッションなのだと思う。

 昔の彼の姿を、僕は半分忘れている。あの頃のHは空気のクッションになった。

 どの段階で、今の黒髪に落ち着いたのだろう。化石のような襟足の記憶。齟齬がある。黒髪に視線を注ぐ。

 ……

 額に黒いバンダナを巻いて、後ろからブリーチをかけた長い襟足が出ていた。カラオケ店でバイトしているときによくHが客として、他のやんちゃな人たちと一緒に店に来ていた。それがきっかけで彼と少しずつ話すようになった。駅周りに何件かある居酒屋の一つが彼のバイト先で、たまに制服の上からダウンジャケットを羽織って店に来ることがあった。二人は駅の近辺で同じ時間帯にバイトをしていた、ということになる。

 Hとは、カラオケ店の目の前に見える立体駐車場の屋上で「オール」をして、夜中から朝まで夢中で話しこむまでになった。

 彼は隠れた読書家で、三島由紀夫の熱心な読者だった。

 それまで知的なものとは無縁だった僕も少しずつ本を読むようになっていった。

 字を追うのもやっとで、一行読んで息切れするくらいだった。

 まずは普段から本を読むこと、読書をすること自体が目標だった。

 いずれ自分に特異な読書体験ができればと思っていた。

「オンナ描けへんやろ」

 とHは短く笑った。

 まともに本を読んだこともなかった人が、ちょっとバタイユとかをかじったくらいで、いきなり小説を書きはじめたから、「書きはじめたんよね」と僕が言ったとき、Hは思わずハッ、という感じで短い笑いをこぼした。

 小説ではないが、最初に「これだ!」と思った本は澁澤龍彦『快楽主義の哲学』だった。知的なエッセンスが散りばめられたエッセイで、こういうのが好きだなと思った。ピンとくるものがあったのだと思う。後から思い至ったことだが、俗的なものに知的なエッセンスが交錯する感じというのは、そういえば父のスタイルだ、と思い、あの自転車が壊れてそれが地球一周につながるという発想も、ある種そのスタイルだと思うし、なんだか父のアイロニーとユーモアの独特な接点の源泉を発見した気になった。

 大学一年の夏休みに帰省した際、あらためて父の書斎を見ると、本棚に並んでいた全集の正体は澁澤龍彦全集だった。

 子供の頃から父の本棚をなんとなく眺めていて「ジル・ドゥルーズ」という名前が印象に残っていた。今は「ドゥルーズ」という呼び方にすっかり慣れたが、サブカルチャーにもよく登場する、青髭ことジル・ド・レの「ジル」と結びついて、ファーストネームの「ジル」の印象がもともと強かった。

 晶文社から出ているドゥルーズの著作で蓮實重彦訳の『マゾッホとサド』もあった。背表紙のタイトルを、見てなぞるたびにマゾッホとサド、マゾッホとサド、マゾッホとサドってなんやねんと思っていた。『ぐりとぐら』みたいだと思っていた。「マゾッホ」という正体不明の人物――いや、人間かどうかもわからない。妖精? か何かの異形の形態を想像していた。背表紙のタイトルは、マゾッホ、という日本語の感覚からして変てこな名前からスタートして、それが「と」ときて、そして、サド、というカタカナ二文字のあっけなさで、おわり。晶文社のサイのマークも象徴的だった。

『家畜人ヤプー』もあった。これも印象的なタイトルでよく覚えていた。霞んだ青っぽい表紙で、なんとなく中国っぽい、三国志とかの、壮大な歴史が描かれた物語を想像していた。なんなんだろうと思っていたが、まさか中身がああだったとは。

 父をそういう尺度で意識したことはなかった。自分には、もっと早い時期から知的なものに触れる機会が身近にあったのだ。

 嵩を占めているだけだった書棚の本が、後ろからHが重なることで日蝕のようにオーラを放ちはじめた。

 Hはじつは頭がよく、大学は大阪でトップのところに進学した。僕が大学に行けたのも、彼から家庭教師のように個人指導を受けた影響が大きい。

 大学生になってから、彼は徐々にヤンキー的なところが抜けていって、チャラ男的なあり方に変わっていった。そして、ごく世俗的に若者らしく生きていたように周りから見える一方で、もともと抱えていたらしい、本質的なものを追い求める姿勢、世界をミクロにマクロに観察する真摯な態度、そういう渋さみたいなものを、オモテに出すようになっていった。彼にとって知的なものというのは何か「固い」ものだった。

 Hは今、Sさんと同居している。彼女とは大学で出会ったらしい。

 哲学研究をしている彼女は、フランス現代思想が好きらしく、フランス語も堪能だ。ここ数年、僕は哲学を少しかじっているので語学にも興味が出てきて、後日Sさんにフランス語を習いに行くことになっている。

 あと、家では猫を飼っているらしい。

 哲学、とりわけフランス現代思想についてはSさんにいろいろ教えてもらった。『ぐりとぐら』のような印象だったドゥルーズの著作『マゾッホとサド』についても、専門的知見から解説を受け、観念の裏側がひるがえったような何とも言えない驚愕をピリッと感じた。

 僕は、小学生男子の趣味を高校生になっても維持し続けているようなある種のオタク的なもの、その延長で知的なものに触れていた。たとえば大人になってもトレーディングカードゲームをコレクションするとか。小学生向けだったゲームの「やり込み要素」に打ち込むとか。そういうものが、欲しいと思っているイメージが自分の思いもよらない視点から描かれている作品を探し出し、見つけて、それを並べてみたり、ひとつの著作の好きなフレーズをやたらと暗記したり、といったことにつながっている。

「趣味の完成」僕にとって知的なものというのは、趣味に対するメタポジションだった。

 家に到着。

 木造の二階建て。

 玄関のドアの前でお腹が痛くなったみたいにHがしゃがみ込んだ。

 猫が飛び出してくる可能性があるから、そうならないように、猫の高さに合わせて、立ち塞がりながら入るのだという。

 扉を開けると何も飛び出してこない。二階からSさんの声がして、ドタドタと木の階段が音を立てて、Sさんが降りてきた。

「蜜柑は?」

 とHが訊く。

 部屋の扉を開くと、猫はいた。そのまま二人はリビングの方へ入っていくが、僕は、ちょっと立ち止まって猫を見た。猫もこっちを見ていた。

 こう見つめられていると、この場にまったく関係ない余計なことを考えまくってやろう! という謎めいた激しいエネルギーを自分の中に感じるが、よくわからない。

 真面目な話を面と向かって話している最中に急にくだらないことを言いたくなるアレなんだろうか。

 Hに手渡された細長い袋の口を開け、僕も中身のペースト状の餌を、この蜜柑という名前の飼い猫に食べさせた。手指に触れないように、あるいは床にべちゃっと落ちたりしないように、慎重に袋から絞り出そうとするが、かえってその方が上手くいかない。液が出たらそれを、すぐに蜜柑の舌が空中で絡め取ってキャッチする、必ずそうなる、というくらい、信じ、サーカスの空中ブランコのようにその流れに身を任せる、自分も流れになる。

 焼肉。

 2リットルのジュースのペットボトル。

 野菜の盛り合わせ。

 ポテトチップスの袋の裏面の銀色が油で光っている。

 肉を取って自分の紙皿に乗せていく。

 会話の中で、H、Hが、と何故か彼氏のことを苗字で呼び捨てにするSさん。不思議に思っていると、「そんな呼び方、したことなかったで」「今が初やで」と彼氏がツッコミを入れた。そしたらSさんは「合わせてんねん」と何故か強い口調で言った。僕とHの友人関係に合わせてわざわざ呼び捨てにしたらしい。普段はちゃんと名前で呼んでいるようだ。

 ソファの前の小さい円テーブルに置いてあった僕の使っているコップの中に、猫の蜜柑が手を入れる。顔も押し入れる。

「人が飲んだ水好きやねん」

 とHが言う。

 だが僕には、HがSさんのことを「にゃんにゃん」と呼んでいるらしいことが、わかっているのだ。僕がいるときはいつも下の名前に「ちゃん」を付けた呼び方だが、二人きりのときはどうやら「にゃんにゃん」らしい。

 僕の両親はお互い高校の同級生だった。学生時代の変なニックネームがそのまま夫婦間の呼び方になっている。だから「にゃんにゃん」もまあわかる。

 しかし、それにしてもSさんといるときのHを見ていると、ベタな男子のダメさみたいなものが、Hからも露見するようになった。ということは、つまり『エヴァンゲリオン』でいえば、Hはあの美少女の平手打ちを通過した果てに今この人と付き合っているのだろうか。平手打ちを回避して、という回路があるのだろうか。そのへんが僕にとっては謎だった。

 二階に移動。

 勉強会が始まる。

 ときどき蜜柑が机の上を横切る。

 Hはルーズリーフにメモを取りながら、かたかたとパソコンに打ち込んでいく。Hは本気で小説家を目指し長編小説に取り組みはじめていた。Sさんはその隣の自分の机に向かってパソコンのモニターに表示された論文を読んでいる。

 僕は、一応勉強するための本を持ってきてはいるが、読む気にならない。

 関東の大学に二年いて、けっこう文学活動が盛んなところだったので僕もそれに巻き込まれて、とりあえず何か文学的なものを書こうとした。が、いまいち自分の書きたいものがわからなくて、真っ白で、やる気がなくなって、実家に戻ってきてしまった。

 僕は今、けだるいモラトリアムを過ごしている。本気になるものがない。焦りがある。

 もう何年かの間、ずるずると実家で暮らしている。故郷の重力と闘っているのだが、この闘いのために再び文学的なものに注視しはじめてもいた。

 昨年から通信制の写真の専門学校に入り、通信制では月に一、二度、スクーリングがあって今日はその事前課題をやるつもりだ。

 カメラを取り出した。カメラを持ってきたのだった。それは課題に使うのではなく、なんとなくこの家で写真を撮ろうと思っていた。テキトーに蜜柑の写真を撮ってみる。良いも悪いもないただ撮っただけの写真をカメラの液晶で確認する。どうでもいい写真すぎて、一枚一枚削除していく。写真って興味ないなあ、と思った。

 スマホをいじっているHに近づき、パシャッと音が鳴って写真が撮れた。むっ、という反応でHがこっちを見た。猫と同じように、とりあえず彼を撮った。何の面白みもない姿勢が一眼レフカメラの高解像度で記録された。人も物も、風景も、カメラの前では大差がない。何を撮ってもいい。それは僕が写真に興味がないのか、写真というジャンルの特質も関係するのか。とりあえずSさんを撮ろう……とはならなかったと思う。

 課題の方は、ピンホールカメラを自作して行う。

 それもやる。

 やらなければならない。

 まず、カメラを制作する。

材料

ダンボール箱

トレーシングペーパー、またはプラスチックシート

アルミ板

カッター

定規

錐または画鋲

ガムテープ

 箱がカメラになる。トレーシングペーパーがスクリーンになる。箱の底面に「窓」を作り、そこに取り付けるアルミ板に、小さな穴をあける。針穴をあけた「窓」がある面とは反対側の、箱の開口部からスクリーンを覗くと、外界の光が小さな針穴から入り込み、箱の中で、スクリーン上に上下左右とも逆転して像が映る。

 このスクリーン上の倒立像――ピンホール現象を、観察して記録するという写真原理の課題だ。

 倒立像の投影状態がわかるようにスクリーンをスマホで記録する。

 ピンホール現象とは、写真の最初の姿だ。カメラの装置が発明されるずっと以前から、写真原理は自然界の中に存在していた。

 アリストテレスは日蝕のときに屋外を観察していてプラタナスの木陰になった地面に三日月形の光が揺れているのを発見した。それは重なり合った葉の隙間から投影した太陽の像で、月に覆われ太陽が欠けて細長くなった日蝕の三日月形が、葉と葉の隙間という隙間から、倒立像となって投影され、爪を切った跡のように地面に散らばっていたのである。日蝕により世界が部屋と同じくらい暗くなり、プラタナスの葉の重なりによってピンホールが生じ、即席のカメラオブスクラが屋外に現れたのである。

 葛飾北斎も『富岳百景』のなかで、雨戸のふし穴から暗い室内に映像が投影される様子を描いている。

 このように写真の原始的な姿は自然の中に見つけることができる。

 カメラの技術が進んだ現代でも、部屋を真っ暗にして一点だけ窓に小さな覗き穴を作れば、たちどころに部屋がカメラオブスクラとなり、窓のすぐ外の風景がいやおうなく壁に映し出される原始的な写真原理を確認することができる。

 ……

 ダンボールを組み立て、底面に小さな四角い枠をつくる。

 それは「窓」で、カメラであればレンズを装着する部分。使用するアルミ板よりも小さな「窓」を作ること。

 アルミ板の中央に錐で穴を開けて、「窓」に取り付ける。

 ダンボールの繋ぎ目は厚手の黒いビニールテープで塞いで、完全に遮光する。箱の蓋は畳まずに、箱の胴体を延長するかたちで蓋同士の接地面をきっちり塞ぐ。底面の「窓」の針穴と、反対側の開口部以外は、光が漏れないようにする。

 スクリーンとなるトレーシングペーパーを取り付ける。針穴からスクリーンまでの距離は十五センチくらい。そのくらいをとって、トレーシングペーパーを、箱の底面と平行になるようにテープで固定する。折れや歪みがなくピンと張られていることが大事。これが難しく、箱の中の真ん中あたりで手探りにこの作業をしなければならず、すぐに歪みが生じてしまう。トレーシングペーパーではなくプラスチックシートにしておけばよかった。

 うーーーん、うーーん、

 うーーん、うーーん、

 うんうんうんうん

 うんうんうんうん

 ……という感じで、あくび? というか溜息に喉音を混じえた声がして、それはSさんの独り言なのだが、彼女の癖というか、よくこんな溜息のような長いつぶやきをするのである。この間にSさんはけっこう喋っているようで、よく聞き取れないが、かなりまとまった文を形成しているのではないかと思う。モニターのテキストを読み上げているのかとも思うほどで、だとしたら能動的な姿勢なのだが、見てみると椅子にもたれかかっていて、視線は上方に向いているから、やっぱり休憩しているのだ。

 思考。

 それを空気を抜くみたいに。

 冷蔵庫に貼り付けるアルァベットの磁石があるが、あんなものを、おそらく彼女の中には大量に抱え込んでいて、それが、たとえばゲームセンターなどで見かける透明のドーム状のくじ引き装置のように、文字が大量に紙吹雪みたいに飛び交っている――言葉が組み立てられ、ずっと意味を形成しながら渦巻いているようなのだ。

 と、特徴的なあくびに対して想像をひろげる。

 だから集中の圧でパンパンになったドーム内の空気をちょっと抜くだけでもそこから言葉が溢れ出す文明の息吹なんじゃないだろうか。

 ピンホールカメラは完成したが、もう夜になっていたから、ピンホール現象を確認することはできない。家の中では光源が暗くて像は見えない。屋外が望ましい。

 三人とも切り上げて、一階に移り、マクドナルドのデリバリーを頼んで晩ご飯にする。

 ……

 H爆笑してた。

 あの状況、しようと思ってしたんじゃない。

 何となく遊びで、トンボの定番みたいに蜜柑の目の前に渦を描いてみたというだけだった。

 しかし、渦には無反応。で、それをやめて手をひっこめた瞬間そっちに飛びついてきて、また渦を描く。無反応、手を引っ込める。飛び跳ねジャンプ。また渦を描く無反応、飛び跳ねジャンプ。渦を描く無反応、飛び跳ねジャンプ……と繰り返されるうちにギッタンバッタンが始まって、気がつくとハチャメチャな状況になっていた。

 ハチャメチャの時空が、いつの間にか蜜柑という存在の小さな範囲において起こっていた。

 リビングのソファで確認したところ、爪痕、噛み痕が筋状に、赤く手首の周囲に引っかかっていた。付けられたダメージ。何も、言い返すことがない。文句のつけようがない。猫だから。

 ――蜜柑のぐにゃぐにゃの背中

 なんなんアイツ?

 蜜柑、避雷針なのかもな――そこにはいつでもメタモルフォシスな時空が薄雲となって周囲を取り巻いていて――僕のエネルギーは無意識のうちに、アイツの存在するごく小さい一点に向かって導かれていき、そして、変幻自在のベールの向こう側へと放電される。

 ――僕も猫になっていた気がする。

 あと蜜柑、急にヤモリになってソファの下へ、狭い隙間の奥へ消えたり、あっちのドアから背中をお山に盛って挨拶にくるみたいにコミカルな感じでトコトコ、かと思ったら突然サーッ! と方向を急転換し反対の扉の方に向かって滑走する。

 二階の部屋。

 さすがに喋ることがなくなる。

 救急車の音が聴こえる。Sさんだけまだ論文を読んでいる。

 Hは晩酌が一日の終わりの習慣らしく、よく見かけるアルパカのマークの瓶を、閉じたパソコンの前に置き、グラスに注いでお酒を飲んでいる。僕はお酒は普段飲まないけど、おつまみのような食べ物は子供のときから好きだと言ったら、「おつまみセット」の大袋から、さまざまな種類のおつまみが小袋になっているのを鷲掴みにして、僕にくれた。

お皿に並べてみた

カルパス

小アジを開いたやつ

ピーナッツ

貝ひも

イカゲソ

ビーフジャーキー

 一眼レフカメラを手慰みに操作していた。蜜柑の写真は撮ってすぐ消していたが、スマホをいじるHの写真はそのままだった。ブレてなくて、ピシッと輪郭がハッキリ撮れている。

 純然たる今のHだ――ハッと思った。

 ただのHでしかない。

 石ころみたいなものだ。

 網戸の目立つところに穴が空いていて、破れ目が糸くずみたいにチリチリにほつれている。その穴に、Hが人差し指を差し入れた。僕はそれを見ていた。するとHがこっちを振り向いて、目が合った。Hは小さな声でコソコソと喋るような感じで秘密でも告げるみたいに、

「      」

 と言った。大袈裟に目を見開いて、驚いたような調子で言った。それから、口をぽっかり開けたまま、ピシッ……と固まったように静止した。その静止はわざとやっているのである。

 父にもこんな、おどけたような性格があった。幼い頃、電話を切った父に誰と電話していたのかを訊くと、ちょうどHと同じように目を大袈裟に開いて筒のように口を窄ませ、

「カラスから」

 と秘密を告げるように言われたことを覚えている。僕はそのとき怖くなって泣き出してしまった。

 二人は隣の部屋で寝るからと出て行った。

 勉強していたこの部屋は今から僕の寝室になった。

 急に一人になった。

 部屋には布団が敷かれている。

 布団に入った。

 耳元を不快な音がよぎった。手で擦ってもまた嫌な音がした。

 蚊だ。

 すぐさま立ち上がって電気をつけた。部屋全体を瞬時に見渡し、できるだけまんべんなく視界全体を均等に見るようにして、影がどこか飛んでないか、浮遊する影を浮き彫りにして位置を察知しようとする。

 机の下の暗いところに視線を移し、特に注意した。だが見つけられなかった。

 もしかして網戸のほつれ目から入ってきた蚊だろうか。

 網戸の穴。ここから入ってきたのだろうか。ほつれ目の向こう側。

 小さな一点の向こう側――ピンホールカメラみたいだ。

 蚊がいるので、ちゃんと寝られない。電気をつけたまま、なんとなく部屋をウロウロしている。

 この空白の時間、こんなときには、高校時代の遅刻ギリギリの感じ――あの「気持ちが急いでいるんだから自転車もそれに合わせるんだ」という空回り的な勢いが、ちょっと自分の中に再び感じられてくるのである。

 蜜柑? アイツ……そう、猫に見つめられているときのよくわからない激しい気持ちも、この状況に関係がありそう。暴れたいのだろうか? 意味なく。ただ暴れたい? 暴れて、ハチャメチャの時空を身の廻りに綿アメのように取り巻いて、膨張させ、それを四方に押し拡げていき、この空白の時間を、無理やり押し切ろうとする感じ。

 高校時代は、遅刻するかもしれない、というひたひたした不安で頭が真っ白になっているその内在的圧迫とでもいうものを強引に押し切ってでも突っ切ろうという真っ直ぐな光線が自分を貫いていた。一秒でもギリギリ間に合いさえすればいい。たとえ自転車が壊れるのだとしても。

 外に出る。風が吹いた。肌寒い風で、季節が冬に近づいている。

 帰ったら蚊が勝手に消滅していた、なんてことはない。

 細い道。両側に並ぶ家々の端に隠れていた月が物陰から現れた。

 近くにコンビニがある。

 ほぼ手ぶらだが、財布と、それからUSBを持ってきた。スマホをいじるHの写真と、撮ったのも忘れていた写真から数枚を選び取って、データを移してある。これらをプリントしようと思っている。撮ったのも忘れていた写真、というのは、写真でしかない写真だ。そういうただのものでしかないものを「乾き物」みたいに並べてみたくなった。

 無意味なコレクション。

 月の石だ、と瞬間的に言葉が浮かんだ。そのフレーズが、言葉の並びが湧き上がった。何の思い入れもない写真をコンビニにプリントしに行く。このことを月の石集めだと思ってみる。

 スマホをいじっている姿勢のHの写真に「月の石」というタイトルをつけて発表してみるのもいい。「スマホをいじるH」と「月の石」のあいだには何の関係もない。

 豊かな解釈をひきだす潜在的な意味は干上がっている。

 ただの石と石の間の距離しかない。

 距離でしかない距離、みたいなものを「乾き物」みたいに味わう。

 風がときどき吹く。

 A4サイズになったスマホをいじるHの写真と他数枚をひらひらさせながら道を歩く。

 帰ったら蚊が勝手に消滅していた、なんてことはない。

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