純粋で不透明な水

 「せいの流に、事業の暴風に身を委ねて降りては昇る。かなたこなたへ往いしては返る産の褥、死の冢穴。常世の海原」

 「経緯の糸の交。燃ゆる命。かくて『時』のさわ立つ機を己は織る。神の衣を織る」

 私の顔に、リハーサル室の定点光が当たり、一瞬目眩を感じる。目を細めて自分の台詞を発した後、安堵のため息をついた。そして、目の前でファウスト役を演じる林先輩が次の台詞を言うのを待った。しかし、ファウストは何も発さず、静寂だけがリハーサル室に響き渡る。しばらくして、ファウストではなく、林先輩の声が無音の部屋に響く。

 「すみません。みんな、台詞を忘れてしまいました」

 室内からはどよめきの声がわく。私は冗談めかして言った。

 「先輩、どうしたんですか?直前の悪魔を呼び出す長い独白は一つも間違えずに覚えていたのに、なぜこんなに簡単な台詞を忘れたんですか」

 私は背を向け、ファウストのようなポーズを取っては声を低くし、林先輩が言うべき台詞を読み上げた。

 「広い世界を飛びめぐる忙しい霊よ。己はお前をどれ程か親しく思っているぞ」

 私の演技が拙くて滑稽だったせいか、周囲のクラスメートからはちらほらと笑い声が溢れる。演劇部の部長である藤田先輩は、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに手を振って林先輩に向かって寛大に告げた。

 「林君も台詞を忘れるなんて、考えもしなかったよ。五分間休憩を取るから、ゆっくり台本を見返しといて」

 林先輩は軽く頭を下げて謝罪し、部屋の角の方に退いて、バッグから自分の台本を取り出し、地面にしゃがみこんで熟読し始めた。彼は目を下げ、細長いまつ毛が鼻梁に淡い影を落とし、細長い指が悪戯に台本を弄りながらただ座っているだけなのに、彼は一際目を引く存在感を放っていて、視線を逸らすことができなかった。

 マルガレーテ役の愛芽が軽快に林先輩の隣に座り、彼に水を手渡した。林先輩は頭を上げて、「ありがとう」と小さな声で言った。愛芽は林先輩の耳元に寄り添い、何かを話していたが、時折、目がこちらに飛んできた。林先輩も律儀に応じて、口角には浅い笑みが浮かんでいるようだったが、目には何の感情も見受けられなかった。私の台詞は元々少なかったので、みんなが真剣に復習している時、私は何をすべきか分からなかった。私は慣れ親しんだ台詞たちを適当に捲っていたが、余光は常にスピーカーにつながる電源コードに向かっていた。

 どれほどの時間が経ったのか、リハーサルが終わり、皆が荷物を片付け始め、その後、笑いながら2、3人ずつ練習室のドアを出て行った。みんなが出て行った後、私は残り、黙々と荷物を片付け、練習室の電気を消し、ドアを閉めた。

薄暗い廊下に出ると、驚いたことに林先輩が街灯のようにポツンと立っていた。彼は壁に寄りかかって、目を閉じ、頭を垂れて何か考え込んでいるようだった。私は頭を低くし、彼の前を慎重に通り過ぎ彼が私に気づいていないようで、ほっと一息つこうとした矢先、先輩の冷えた声が後ろから聞こえた。

 「熊野さん、寮に帰るの?」

 私の足はその場で釘を打ち付けられたように動かなくなり、機械的に振り返って、先輩の質問に答えた。

 「はい、そうです」

 「そうか、今日は迷惑かけてごめんね。お母さんのことは解決した?」

 先輩の言葉によって、一瞬私の心がざわめいたが、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて答えた。

 「先輩、心配かけてすみません。もう解決しました」

 先輩が何かを言いかけているような表情を見せたので、彼の発言を待たずに再び口を開いた。

 「先輩、まだ帰らないのですか?ここで何をしているんですか?」

 「ああ、彼女を待っているんだよ」

 「彼女?桜井さんですか?」

 「そうだよ、どうしたの?」

 「いや、てっきり先輩は愛芽と一緒に居るのかと思っていました。ファウストはマルガレーテに一目ぼれするのですから」

 「そんなゴシップな冗談、君らしくないね。」

 先輩は恥ずかしそうに後頭部を掻いた後、爽やかな笑顔を見せた。

 「あっ秀一、稽古はもう終わったの?遅れてごめんね」

 廊下の反対側から、元気な女性の声が聞こえてきた。恐らく桜井先輩が来たのだろう。私は先輩に別れを告げ、廊下の反対側に向かって歩き始めた。桜井先輩が小走りに私の横を通り過ぎると、風が立ち上がった。彼女からはオレンジの花の香りが漂い、私はくしゃみを抑えることができなかった。先輩と桜井先輩は何かを話しているようで、彼らの声はだんだん遠くなり、次第に聞こえなくなった。

 夜は涼しく、月の光が優しくこの十数平米の狭い寮室に注ぎ込んでいた。小さな寮室は無数の雑物でいっぱいで、3段組み立て式の衣服掛けは安価な布地で敷き詰められていた。衣服掛けの隣には同じような組み立て式の棚があり、些細な生活雑品が置かれていた。衣服掛けと棚の向かい側には幅90センチに満たない小さなベッドがあり、その前にはカラフルな編み物のカーペットが敷かれ、その上にテーブルが置かれていた。テーブルは少し古びていたが、綺麗に拭かれていた。ベッドの足元には小さな木製の勉強机があり、その勉強机とベッドの距離は非常に狭く、椅子が入ることは出来ない。机の上にはさまざまな学習資料が山積みになっており、その中には一台の小さなノートパソコンもある。光を反射して輝くそのノートパソコンは、この小さな部屋で最も貴重な品物であるかもしれない。

 私は窮屈で混雑した寮の部屋を抜けて、真っ直ぐに浴室に向かった。置物棚が邪魔で、浴室のドアを完全に開けることは出来ず、私は身を屈めながら浴室に入った。リハーサル室から持ち帰ったスピーカーワイヤーを手提げ鞄から取り出し、端子同士を結び輪を作り、洗面台の蛇口に掛けた。そして、洗面台に背を向けて床に跪き、頭を洗面台から垂れた輪の中に入れた。

 私は迷いなくこれらの行動を取った。まるで何度も事前に練習してきたかのように。

 巨大な災厄、無限の悲哀。短い歌の終わり、明月は欠ける。美しい都には、碧い血が流れる。碧きも時に枯れ、血も時に消え、煙の痕跡は絶え間なく続く。ありしや非ありしや、蝶に変じる。

 ふとした瞬間、この1年間の出来事が走馬灯のように目の前を駆け抜ける。世界が静止しているように思え、同時に捉えることのできない速度で後戻りしているようにも思える。一年前、このキャンパスに入学したばかりの頃、自分の命をこのような形で終わらせるなんて考えもしなかった。いや、ひょっとしたら、もっと遥か昔に、私の運命はもう決まっていたのかもしれない。

 私は岡山にある小さな村で生まれた。父とすぐに離婚した母は、私と幸雄を祖母に預けて、東京へと出稼ぎに行った。

 「ここにみんなで引っ越してきたら、もう誰も私たちのことを田舎者呼ばわりしないわ」

 これは、母が東京に出てから、初めてよこした手紙に書いてあった言葉だ。祖母は年老いて体調も悪く、私たちの世話をすることは出来なかった。だから自然に私と幸雄はお互いを頼り合って生きてきた。母は毎月、私たちにお金と手紙を送ってくれた。その手紙は非常に愛情がこもっているもので、私と幸雄は何度も読み合ったものだった。

 母の手紙には、私たちがまだ見たことのない世界、東京、その姿が抽象的に書かれていた。母の手紙を通じて、私と幸雄の心の中に大まかな輪郭が刻まれました。それは奇妙で掴みどころがなくキラキラと輝く世界だった。母は手紙の中で、自分は学歴がないから向こうでの仕事は大変だと言っていた。だから、しっかり勉強していい大学に入ってこそ、出世できるのだと何度も念を押していた。そして、その信念は私と幸雄の中に根付き、同級生が勉強することの意義と、それがもたらすものの全てを理解する前から、私たちは誰よりも理解していた。

 熊里幸雄が母親から電話を受けたのは、実験室で何日か徹夜をしていた時だった。実験の結果が思わしくなくて、彼はこの研究がうまくいかないことは予想の段階から決まっていたのではないかと思いながら、作業に当たっていた。実験の結果が上手くいっても、失敗しても、論文を発表してもいいんじゃないかという仮説を立てておけば、抱えているストレスはずっと少なくて済む。でも幸雄は、自分の事をそんなに融通の利く人間ではないと分かっていたし、小さな頃から一本道に拘るタイプだった。

 そんなことを考えていると、滅菌用のビニール袋に入れてあった携帯電話が点灯し、振動しながら母の名前を表示した。これまで母からの電話は何度もかかってきたことがあるが、この電話は幸雄の胸をぎゅっと締め付け、嫌な予感が頭を衝いた。そんな幻想を振り払うように首を振って、シート越しに母親の電話に出た。電話の向こうからは、母の泣き声が聞こえてきた。

 「幸雄、お姉ちゃんの学校に来て。お姉ちゃんが、大変なの」

 由紀夫は目の前が暗くなるのを感じた。

 「泣かないでお母さん、お姉ちゃんが、どうしたんですか」

 と平静を装った。母親の泣き声はますます激しくなり、

 「お姉ちゃんが、自殺したの。寮のトイレで」

 ととぎれとぎれに言った。

 幸雄は一瞬、凍りついたような気分になり、姉の素朴な笑顔と、勉強を教えてくれる優しい横顔が目に浮かんだ。いくつかの考えが、幸雄の頭の中をぐるぐると回っていた。

「お姉ちゃんが死にました、姉さんが死にました、熊里加奈子はもうこの世にいない。」
 どうやって実験室を出て、姉の大学に来たのか憶えていないが、姉の寮に入ると、床に座り込んで顔を覆って泣いている母が目に入った。姉の学校の教師や幹部らしき人物が、母親を取り囲むように立っており、困ったような表情を浮かべていたが、幸雄の顔を見ると、ほっとしていたが、すぐに、スモークグレイの背広を着た中年の男が、駆け足で幸雄を迎えた。

 「あなたは熊里加奈子さんの弟さんでしょうか。お姉さんのことはとても残念です。でも、お母さんともよく話してください。まともに話ができません」

 幸雄はその言葉を無視し、「姉はどうしたんですか」とたずねた。

 「お姉さんを見つけてすぐに警察と救急車に連絡しました。お姉さんは今、病院にいます。ただ、病院に運ばれたところで息を引き取ったということでした」

 それを聞きながら幸雄は震え、床に座り込んで泣きじゃくる母親を起こし、姉の狭い部屋へ連れて行き、ベッドで一緒に腰を下ろした。肩に取り憑いた母親は、泣きじゃくり、シャツに涙を滲ませ、ぬるぬるした肩の感触が、幸雄を現実に引きずり、無理やりに落ち着こうとした。

 「姉はどうして自殺したんですか」

 スモークグレーのスーツを着た男が答えようとすると、隣の母親が悲鳴を上げた。その声は人間の声ではない、と幸雄の体はびくっとした。母親は怒りで体を立ち上がらせ、側にいたおばさんを指差した。

 「お前たちだ!お前たちの学校だ!私を追い出そうとしたお前たちのせいで、娘は自殺したんだ!人間じゃない!娘を返せ!」

 寮の管理人であるおばさんは宥めるように言った。

 「ここは学校が所有している学生専用の寮で、あなたがここに住んでいるのはルール違反なのです。学校はあなたに何度も出て行くようにと警告しています。私達は学校のルールに従っているだけです」

 先頭の背広のおじさんは、母親と話が通じないことを知っているのか、幸雄に向き直った。

 「実は、あなたのお母さんは一年近くずっとお姉さんと一緒にこの寮に住んでいました。ご家族が大変なのは理解できます。でも、学校のことも考えてください。生徒がもし、みんなご両親を連れて寮に来るとしたら、うちは生徒のために家族寮を建てなければなりません」

 母親は周囲の声が聞こえないのか、只管に罵り続け、幸雄がいくら説得しても落ち着くことはなかった。

学校の人、警察の人が来ては去っていき、結局、姉の部屋には、幸雄と母だけが残された。どれほどの時間が経ったのか、母は疲れ果てたのか、姉と分け合っていたであろう小さなベッドに寝転んでいた。幸雄は立ち上がり、姉が自殺したトイレに行きドアを開けると、吐き気がした。黒いスピーカーコードが、輪になって洗面台の蛇口に掛けられているのが見えた。姉は洗面台に背を向けて正座し、ロープに首を突っ込んで、自分の力で自分を絞め殺したそうだ。この姿勢ならば、彼女は幾度ものの自殺を放棄する機会があった。力を緩めさえすれば、立ち上がって目前にある希望のドアに向かうことができた。しかし、彼女はそうしなった。彼女は依然として、全力を尽くし、自分を殺した。幸雄の姉、熊里加奈子も、彼と同じように、一つの道を見定めて踏ん張っていたのだ。

 小高刑事は、目の前でぼんやりとした表情を浮かべる中年女性を見つめ、無力感を感じた。彼女が入って来た時はとても興奮していたので、尋問は全く進められなかった。疲労困憊していたのかもしれないが、一言も発せず、尋問はまだ何も進められないままだった。事件は全てが明らかで、ただの自殺事件だけだった。調書を作成し、遺族が遺体を受け取り、小高刑事の仕事も終わりとなる筈だった。その後の遺族と学校の紛争は民事訴訟に属するからだ。小高刑事は疲れ果てて頭を下げ、両手でこめかみを力強くマッサージした。女性に差し出されたお茶は冷めてしまっていたので、小高刑事は立ち上がりそれを捨て、テーブルの茶葉で新たに2杯のお茶を入れた。

 細長い緑色の巻き毛のお茶葉が静かにカップの底に沈んでいる。熱湯を注ぎ込んだばかりで、お茶はまだ透明だった。カップから徐々に湯気が立ち上り、女性の顔も水蒸気に包まれ、薄暗く悲しげに見えた。

 「加奈子さんがなぜ自殺したのか心当たりはありますか?」

 小高刑事は自分が同じ質問を何度繰り返したか分からなかった。今回も女性は黙り込むだろうと思っていた。しかし、小高刑事が目の前のお茶を一口飲んだ瞬間、熱いお茶がのどを通り過ぎると同時に、彼女は突然口を開いた。

 「学校のせいなんです。学校がずっと私たちを追い出そうとしていました」

 小高刑事は女性の突然の発言に驚いた。しかし、すぐに椅子に座り直して、質問をしていく。

 「あなた、今はどこに住んでいますか?」

 「私と加奈子は一緒に住んでいます。彼女の寮で」

 「え、でもそれは学生寮でしょう?親も一緒に住めるんですか?」

 それを聞くと、女は分かりやすく緊張し、慌てて答える。

 「仕方がないんですよ。家が取り壊されて、住むところが無くなったんです。昔もそうでした」

 「昔ですか?」

 「加奈子が学部時代に通っていた大学では、うちが貧乏だったので、物置を用意してくれたんです」

 「今の学校は認めてくれないんですか」

 「はい、そうなんです!ひどい学校です!本当に、、」

 また興奮しそうになる彼女を、刑事は慌てて遮った。

 「わかりました。娘さんは学校での生活はどうでしたか?」

 簡単な質問なのに、母親は深く考え込んでいたようで、しばらくしてから再び口を開いた。

 「加奈子は人気者で、大学一年生の時には学生会をしていました」

 「娘さんは今年で二十七歳で、修士の一年生でしょう」

 「ええ、大学を卒業してしばらく働いていましたが、修士の試験を四年受けて、今の大学に入りました」

 「じゃあ、彼女が大学一年生になったのは八年も前ですね。どうして、彼女が人気者って知っているんですか?」

 女の目は再び虚ろになり、混沌に陥ったように、ただ、ぶつぶつと呟いた。

 「加奈子は人当たりは良いんですが、評判が悪いと生徒会で働くわけにはいきませんから」

 刑事は深いため息をつき、続ける。

 「娘さんが自殺する前に、何か変わったことはありませんでしたか?」

 女は苦しそうに目を閉じたまま、とぎれとぎれに答えた。

 「亡くなる前の日、加奈子はとても活発に動いてくれていました。学校は私が立ち退くことを求めて、加奈子は大雨の中で一日中、家を探しに出て、それから、遂に私でも払える安い部屋を見つけてくれました。私は部屋を見ないで、加奈子を連れて家を借りることを決めました」

 「待ってください、加奈子さんは別に寮から出る必要はないんじゃないですか?」

 「加奈子は優しい子なんです。私を一人にはさせません。それに、部屋には何もありませんでした。洋服を集めて床に敷いて、体にかぶせて、それでなんとか一晩を過ごしました。そんな狭い部屋で私一人で住めと言うんですか?

 今夜は劇の稽古があると言っていました。稽古が終わると、洋服をもっと部屋に運んで来て、次の日の朝は学食で朝食を食べようと言いました」

 女はそこで声を詰まらせて、やっとの思いで続ける。

 「食堂で待っていても加奈子が来ないので、寮に行ったんですが警備の人が入れてくれなくて、借りた部屋に戻っても居なくて、何度電話しても出なかったんです」

 女はいよいよ声をふるわせて、ついに言葉を続けることができず、顔を上に向けて声もなく泣いていた。刑事がティッシュを三枚取って母親に差し出すと、受け取り、礼を言うこともなく黙って涙を拭いていた。刑事もそれ以上聞くのは忍びない様子で、仕事を終わらすために質問を続けた。

 「娘さんと最後に会ったとき、何を言われたか覚えていますか?」

 女は懸命に思い出そうとしているようで、ぽつりぽつりと囁いた。

 「私たちは何もない部屋で並んで寝ていました。私の背中越しに彼女はずっと私を慰めていました。「お母さん、大丈夫、きっと何もかもうまくいくから」と言っていました。そう、私たちはもうあの寮を出て行ったんです。これからは誰も私たちを追い出すことはできません。彼女は弁護士になると言っていました。これからは私を楽にさせてくれると言っていました」

 後ろの刑事が無言で調書を取る中、取調室の明かりが点滅し、女は話を続ける。

 「そうだ、芝居の稽古のこととか、最近の勉強のこととか、子供の頃の話を色々したんですけど、なんだか急に頭がおかしくなったように何を言ってるのか分からなくなったんです。きっと疲れてるんだと思って、早く寝なさいと言って寝かしつけました」

 一気に話し終えると、女は再び号泣し出した。

 「加奈子、本当に可哀想に!」

 それを聞いた刑事は、胸の奥に息苦しさを感じながら、思わず口を開いた。

 「学生の娘さんと同居するのはまずいでしょう。息子さんもいるし、彼、博士課程でもそれなりに収入がありそうなのに、どうして一緒に住まないんですか?」

 母親は、刑事の質問をこれまで予想したことがなかったのか、泣きやんで冷静に答えた。

 「息子と住むのは、やっぱり色々と不便でしょう」

 あまりにも当たり前の受け答えに、刑事は反論に困って次の質問をした。

 「これからどうするんですか」

 女は弱々しく答えました。

 「とりあえず一人で暮らして、息子が就職したら一緒に住みます」

 小高刑事は、同僚と現場を訪れたが、この狭くて窮屈な部屋を訪れる度に、心の底から息苦しさを感じた。同僚が事件現場を片付ける中、小高刑事が部屋を見渡すと、年頃の女の子の本棚には、付箋だらけの分厚い法律関係の本が端までびっしりと埋め尽くされていた。小高刑事は何気なく民法に関する本を一冊取り、沢山のメモが書かれたページをパラパラとめくり、一番最後のページに辿り着くと激しく胸を締め付けられた。最後のページの右下の隅には、小さな弁護士バッジの絵が丁寧な線で描かれていた。

 小高刑事は顔を上げ、本棚の横にある幅九十センチ足らずのシングルベッドを見て、この小さなベッドの上で母親と背中合わせにして八年間、共生しながらも夢を見続けた一人の女性を想像した。

 「ああ、人生は本当に無駄だ」

    コメントを残す