老人

中二の夏の終わり、そのイかれた老人を初めて目撃した。塾からの帰り道、スーパーに寄って88円均一アイスコーナーからその日の気分に合わせて好みのアイスバーを買うのは、私のささやかな幸せであり習慣である。三つあるレジの列で一番疎な右端のレジに並んでいた。イヤホンでロックを聴いていたけれど、老人の怒鳴る声が旋律の中に荒々しく侵入してきた。声の先は中央のレジからで、背が低く灰色の少し汚れたキャップを被った老人がレジの店員に捲し立てていた。青年は、レシートが無いと返金対応出来ないということを丁寧に説明していた。

 「そんなもん関係あるかいや!さっさとわしの金を返せや!」

老人の怒号は表情とは裏腹にやや弱々しく私の目からは、少し滑稽に映った。匙を投げた店員は、並んで待っているお客さん達に断りを入れてレジを止めると店長を呼びに行った。事の一部始終が気になった私は、列を逸れて隣のパンコーナーで食べもしないのに菓子パンをあれこれ手に取っては戻すことを繰り返し、背中では耳を生やしていた。

 老人は値段を表示させるディスプレイを殴りながら店長に怒号を飛ばした。

 「いつまで待たせるんや!早く金出せや!」

 「お客さん、落ち着いてくださいよ。レシートはお持ちではないんですよね?」

 「さっきも言うたわ!レシートなんか関係ないわ!俺はここで買ったんじゃぼけ!」

 「はいはい、分かりましたから。いつお買い上げになられたのですか?」

 「昨日じゃ!もうええやろ、はよ金返せや」

 「事実確認しませんと、正確な金額を返金できないじゃないですか。少し待ってくださいよ」

 「1800円の肉じゃ。だから早よ1800円出せってさっきから言うとるんや」

 「お肉に何か問題があったのですか?」

 「焼いたら無くなったんじゃ!お前らの店はこんなもん売りつけて、とんでもないペテンじゃろうが!」

 アンパンを手に取っていた私は、イカれたクレーム内容に思わず吹き出しそうになり、無理やり我慢したせいで咽せてしまった。月曜の朝、東から上る太陽に怒り狂う。老人の目は細く眉間に皺をギュッと寄せ、怒りで握り締められた拳は壊れた秒針のようにプルプルと震えていた。支離滅裂なものが、この老人にとっては真実味を帯びている。しかし、店長は自分の脳の裏側へとすり抜けていく拳に眼球運動だけを促されていた。そしてピントを合わせるとそこに映った豚を見ては笑顔を取り戻した。

 「何時ごろお越しになられたのですか?」

 「今日と同じぐらいや」

 店長は小言を言い続ける豚を宥め、豚のケツを叩いて店の奥にあるバックヤードへと共に消えた。私は会計を済ませ外に出た後も老人の「焼いたら無くなったんじゃ」という言葉の意味がいつまでも掴めずにいた。隣ではベビーカーに縛られている幼児が泣き喚き始めた。母親は隣で一心不乱に踊り始めた。私が一瞥すると、「すいませんねぇ」と謝ると再び子供に向けてサンバのような踊りを続けた。空を見上げると、どこかの星雲が爆発するのが分かった。

 習慣とは、災害が起きず無事息災である限り切断されないものだ。私は塾の帰りに、またあのスーパーへ寄った。陳列されたアイスを眺めながらあの老人のことをふと思い出し、店内を見まわした。私はあの老人に対して軽蔑が混じった奇異な感情を抱いている。それは、自分がこの世界に生きるということに対する正当な気持ちを抱かせてくれる優越感であると同時に自分に対する侮蔑的な感情も混ざっていた。差別と区別が渾然一体となって、黒い血液が全身を駆け巡る。老人は綺麗なりんごを手に不満で歪めた表情を浮かべて店に現れた。

 「お前のとこで買ったこのりんご、めっちゃ傷んどるやないか。返金してくれ」

店員のおばさんは慣れたように、形式的に謝るとすぐにりんごの代金を返金した。老人は、「悪いな」と笑顔で謝るとノロノロと店の外へと出た。老人が店を出た後、おばさんは、隣の店員に一つのアドバイスをした。

 「あの人、絶対に一回は文句言うから、適当に対処するようにって店長が言うてはったわ」

 積み木は音を立てて崩れた。魚は首輪を解かれて踊り狂い、首輪を付けた我々はその踊りを讃美する。私はすぐに母の顔が浮かんだ。風邪薬を飲むことを拒んでいると、ガラスのコップが投げられた。演劇を習いたいと言うと、「そんなものを習って何の意味があるの!」と酷く怒鳴られ頬を打たれた。その代わりに、水泳とピアノに通わされたが、それこそ、私にとって何の意味があるのか全くわからなかった。

細胞は老人を尾行するのには十分なほど酔っていた。老人は観葉植物のように、車道脇の道をのそのそと歩いている。雲一つ無かった空に暗雲が漂い始めた。釘を刺すように老人の背中をじっと見ては、煩わしくなったアイスを自動販売機横のゴミ箱へ捨てた。この老人が惨めな家に住んでいれば自分自身に向けている罪悪感もいくらかは和らぐだろうか。住宅街を数回くねった後に老人が行き着いたのは、至って普通の3階建ての鉄筋コンクリートのマンションだった。老人は2階へ上がり一番奥の部屋のドアを施錠もしていない様子で開けて中へ消えてしまった。迂回して通りから、老人の部屋を観察すると、老人のベランダには大量の緑の葉がカーテンのように伸びていて、大麻ではないだろうかと勘繰った。しばらくすると、老人の部屋からは時代劇の音がダダ漏れ始め、海水の臭いと潮風のようなものが私の体をさらった。

 

同じ塾に通っている吉田は、楽天的でいつも笑っている。吉田に例の老人の話をすると大層興味を抱いて、塾が終わると一緒に駆け足でスーパーに向かった。吉田は一人でいる男性を見かけただけで、「あれ?」「もしかしてあの人?」と頻繁に聞いてくるので、「俺から教えるから、少し黙っといて」と言いきかせた。やがて老人は一尾の魚を右手に握りしめて店内にやってきた。私が吉田にアイコンタクトを送ると、何も説明は要らないようで吉田は笑いを堪えるのに必死でカップ麺コーナーの棚に手をかけ頭を振っていた。老人は私たちの期待を裏切ることなく、その魚をレジに置くと捲し立て始めた。

「お前のところで買ったこの魚、わしの知り合いじゃ。どうしてくれるんや?」

「知り合い?!あいつやばすぎやろ!」

吉田は私の肩を強く掴んで声を出して笑いたい気持ちを必死に押し殺していた。先週、上手く操っていたおばさんは一言も取り合うことなく、責任者を呼んでくると言って小走りでこちらに走ってきた。私たちとすれ違う際、笑いを堪えているのが分かり、吉田は我慢の糸が切れて手を叩いて笑い始めた。店長は呆れた様子でバックヤードから出てきて、レジに向かった。私と吉田はパンコーナーでその様子を見守った。

「今日はどうしたんですか?」

「どうしたこうもあるかいや。この魚、わしの知り合いじゃ。お前らの店はわしの友達を人に売って食べさせて、それでも人間か!」

「お客さん、本当に警察呼びますよ?すぐ近くに交番あるので行きますか?」

「おう、呼べや」

「呼んでいいんですか?」

「呼べって言うとるやないか」

店長は警察を呼ぶといっても毅然とした態度を取り続けている老人に驚きつつ、アルバイトの青年に交番まで行って警察を呼ぶようにお願いした。吉田は老人の態度に涙を流し笑っていたが、私は可笑しさよりも恐怖心が勝っていた。出来の悪いコメディでもドラマの撮影でもない。私は目の前で起きている現実に圧倒されている。すぐに警察官が駆けつけて、店長から話を聞き、また老人からも丁寧に話を聞いた。老人の話を聞いている最中、レジ台に置かれた魚を凝視していた警察官の瞳は少しも老人を馬鹿にしてはいなかった。

「私は、お客さんに対して、お店の迷惑になるので帰ってくださいということは言いません。でも、これはお客さんの知り合いという証拠がありませんので、お店が責任を取るべきだという強制もしません。あの、見守ることしかできません。勿論、殴り合いとかになりそうであれば止めさせていただきます」

私はてっきりすぐに老人を店の外に連れ出すと思い込んでいた。しかし、隣の吉田は警察の対応に感心していた。

「分かりました、このお魚、どうしたらいいんですか?」

「お前らが引きとって、5千円ワシに払うべきやろうが」

「はいはい、分かりました」

店長が5千円札をレジから出そうとするので、私は呆れ返ってしまい、

「いや、あのおかしくないですか?このお爺さんが言っていることめちゃくちゃですよね?どうしてみなさんもっと強い言葉で叱責なさらないのですか?」

「お前には関係ないやろ!」

老人は私に怒鳴った。しかし、私は全く怖く無かった。理不尽で意味不明な老人を私がこれまで押さえつけられてきた力で押さえつけることが出来ないのであれば、何もかもがひっくり返ってしまう。

「ただの魚じゃないですか!あなたの知り合いはお魚なんですか?みなさん、こんなことをまともに取り合いたくないから、警察を呼んだんですよ!いつも迷惑をかけていて恥ずかしくないんですか?」

「君、やめなさい!」

警察官に制止され、腕を引っ張られ店の外に追い払われた。吉田は後からやってきて、相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべていた。

「さっきの凄かったよ。よく言えたな」

吉田と別れると、私はあの老人の家に向かった。施錠していなかった部屋のことを思い出し、マンションから出る住人の機会を狙ってエントランスに入り、急いで老人の部屋へと侵入した。玄関に靴は一足も無く、キッチンもだだっ広くダイニングテーブルが一つ置かれているが、家具がまるで無かった。部屋のベランダ付近には大きな水槽が二つ置かれていたけれど何も泳いでいなかった。ただそこからは海水の臭いがしていた。そして外から見えていたベランダにカーテンのようにかけられていたのは藻だった。いつの間にか床は水浸しに濡れていて、足を上げると靴からは水が滴った。外からはひたすら不快な音が鳴り響いていた。猛禽類が鋭い口先で肉を抉るような、鈍器で体を殴られるような、そんな音たちが混ざり合っては四方八方からこの部屋へめがけて鳴り響いていた。吐き気に眩暈がしてふらついていると、風呂場から、水面に水が落ちる音が聞こえた。浴槽では、一尾の鮭が泳いでいた。私はキッチンに戻って包丁を取り出しては、殺意を込めて浴槽の中へ何度も包丁を突いた。刃が赤く染まることはなく、何度も繰り返しているうちに泡立っていき、鮭の姿が見えなくなり浴槽をかき分けると、鮭は消えていた。

風呂場から出てキッチンに戻ると、老人はダイニングテーブルに座って時代劇を見ていた。私の方へ振り向き、手に持っている包丁に目を向けた後、

「出口はあっちや」と藻の方を指差した。

包丁をテーブルに置き、藻を掻き分けてベランダに出ると、みんなが楽しそうに、誰かを馬鹿にしていた。衝突しては合成され、叫び声に耳を傾けては一人残らず沈黙を貫いていた。もはや誰の心臓も機能していないことを悟った。再び部屋に戻ると、老人はどこにも居らず風呂場の浴槽には水さえも溜まっていなかった。ただ、床の水位が少し上昇していることだけは確かだった。

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