訪問

「今日は随分と冷えるみたいだから、ダウンを羽織って行ったら」 

 踵を革靴に靴ベラで滑らす田所翔平の後ろから、妻の美香が黒のダウンジャケットを両手に抱え、優しい声で提案した。革靴のつま先が玄関の石を叩き、ノックのように響く。

 「そうなんだ、ありがとう」

 受け取ったダウンを羽織ると、彼女を一度優しく抱擁してから家を出た。田所翔平は、一般家庭に向けた光ファイバーの営業の仕事をしている。出社し朝礼を済ませると、顧客からメールや電話が来ていないかチェックした。昨日営業訪問しその場で契約してくれた川崎さんから、「やはり契約するのを辞めたい」という旨の電話が深夜1時頃に、24時間お客様サービスの事務にかかってきていた。田所は川崎さんの気弱な顔を思い浮かべた。

確か昼の2時頃に訪問した。隠れるように住宅街の中にひっそりと建つ木造の一軒家のインターフォンを鳴らすと、エプロン姿で長い髪を後ろに纏め、眼鏡を掛けた川崎さんがドアを開けた。家事の途中だったらしく少し慌てた様子にも見えた。美人という訳ではないが、肌や髪をきちんとケアしていて、田所は彼女から気品を感じ取っていた。

 「初めまして、お忙しいところ失礼致します。ネット回線のご提案でお伺いさせていただいたんですけれど、ちなみに現在のところ、どこの回線使われていますか?」

 田所がドアを開けた川崎さんに陽気な第一声を浴びせると、川崎さんは明らかに困惑していたが、即座に断りの文句を言ってドアを閉める勇気は持ち合わせていなかった。田所は長い営業経験の中で、このタイプの人間が押しに弱いことは熟知していた。すかさず体の上半身だけをドアの境界線に重なるように、ほんの少し前のめりにして会話を続けた。

 「携帯を契約した時に一緒に入ったやつですけど」

 「そうなんですね、ちなみに月においくらぐらい支払われていますか?」

 「多分、5、6千円ぐらいだったかと思いますけど」

 そう言いながら、川崎さんはドアを閉めたいという意思表示に頭を何度も下げていた。営業初日の人間は、ここで相手の気持ちを汲み取り、軽く挨拶を交わして諦めるが、それでは一向に契約が取れはしないことを知る。必要なのは、気弱な人間が明示する否定のサインに対して敢えてそれに気づいていないフリをすることだと。

 「そのお値段が例えば、月に2千円ちょっととかになるとしたら、どうですか?」

 川崎さんのような人間は相手が望んでいる答えが見えている時は、そう振る舞わないといけないという強迫観念に囚われていることが多い。

 「嬉しいですね」

 「そうですか!あのだったら、本当にお客さんにとっても凄く良いご提案が出来ると思うんですよ。ちょっとお話だけでも聞いていただけないですか?」

 田所は自然にドアの内側へ入っていき、たたきに片膝をついては資料を玄関ホールに並べて白い紙に比較の数字を書き始めた。川崎さんは、床に小さく縮こまった人間の姿を眺めるうちに、呵責に苛まれ土下座をして許しを請いたくなった。懇願するようにリビングへと案内する最中、相手が望む対応をしてはやく追い返したかった筈なのに、気付けばリビングにまで招いてしまっている現状から、自身の行動の問題点を見つけ出そうとしたが、どれも彼女にとっては最善の行動だった。

男は芝居の一コマの様に揚々とサービスの全貌を話し続けていた。彼女はその芝居の空気に疲弊していき、廊下を通して届く洗濯機の脱水音に助けを求めるように耳を傾けていた。彼の声が途絶えたので、視線を上げると無事に台本を読み終えて安堵した、清々しい表情があった。

2年目からは5千円に値段が戻ることや通信速度の改善の喩えにも疑問があったが、彼女はそれが相手にとって都合の悪い質問ということも分かっていたので、聞くことが出来ない。予期せぬこの訪問のせいで20分も家事が止まってしまっている。彼女は済んだトイレと未遂の風呂場を想像しては申し訳ない気持ちになった。

 「あの、私は全然いいと思っているんですけども、本当に、良いと思っているんですけどやっぱり夫にも相談しないといけないと言いますか」

 これは、川崎さんのようなタイプの最終兵器である。この場で契約を済ませないと、機会を逃してしまうことを田所は知っていた。

 「そうですよね。ちなみに旦那様が反対されるかもしれないと懸念されているところとかってありますか?」

 彼女は今日何度目か分からない困った表情を浮かべる。本音では発狂したかった。私が何か悪いことをしましたか?どうして勝手にネット回線を売りに来たのですか?ただ、世間と関わらずに家事をして、読書をして絵を描いてウクレレを弾きたいだけなのに。どうしてあなたはそれを許さないのですか?

 「本当、何かお困りごととかあれば、すぐに対応させていただきますし、今のネット回線を解約する費用なども建て替えさせて頂きますので、損は絶対にないです。旦那様が何か疑問があった際も私がきちんと説明させて頂きますので、ご安心して下さい」

 ご安心して下さい。私が今安心を得る方法はサインをして、あなたを家から追い出すこと以外に無い。

 「分かりました」

 川崎さんは契約書にサインをした。

アイスコーヒーを一口飲んで、田所が折り返すと、出たのは彼女ではなく男だった。

 「昨日、契約した川崎なんですけれども、すいません、申し訳ないですけれど、やっぱり考え直して契約するのを辞めたいと思いまして」

 「左様でございますか。ちなみに理由をお伺いしても良いですか?」

 「全然、今のままで問題無く使えていますし、料金に対しても差し支えていないので大丈夫だなと。ですので、今回は申し訳ないんですけれど」

 「そうでございましたか。でも昨日、奥様にお話しさせていただいた際は、偶に動画が止まるなどで困っているとお伺いしたんですけれども」

 「いや、本当に大丈夫ですので」

 「そうですか、あの、奥様の意見をお伺いすることは可能ですか?」

 「いや、二人で話し合って決めたことですし、この件については僕が一任されていますし、妻も大丈夫だという意見ですので」

 「そうなんですね、かしこまりました。あの、それでは、お手数なんですけれども、お客様ご案内サービスの紙に記載されています電話番号の所に一度お電話していただいて、解約の旨をお伝えしていただいても良いですか?」

 「はい、分かりました」

 「ありがとうございます。この度は、お手数をおかけして申し訳ございませんでした。また何か機会がございましたら、よろしくお願いします」

 電話を切ると、大和営業係長が労う様に笑みを浮かべて慰めに来た。

 「ダメだったかぁ。まあしゃーないよ。気弱気強夫婦の場合だと、こういうパターンは多いからな。夫婦二人共、過保護に育てられていたらラッキーだったのにね」

 川崎さんのような気が弱い人は、幼少期に過保護に育てられていることが多いのだといつかの飲み会で係長が得意げに話していた。何か選択しなければならないときも親が率先して選択してくれたり、困ったことがあっても何も言わずとも親が尻拭いしてくれたり、そのせいで、自分自身のことも自分で決められず、何か要求されたら適切な対処の仕方を知らないから、自分の首を絞めると分かっていても飲んでしまう。その為、一人っ子の人間のリストはそれ以外に比べて高く付くのだと、嘘かホントか分からないことを係長はしたり顔で漏らす。

 しかし、旦那さんはそうではなかった。係長は不要に深く落ち込む必要は無いと慰めてくれた。田所もそれに同意して、報告書を打ち込みながら気持ちを切り替えていた。事務の仕事を終えると、早速今日の営業の為に外に出た。

 街の中心部であるT駅から3駅ほど離れた場所が今日の営業エリアだった。携帯のロック画面に映る美香との写真を眺めては、自分たちの家庭の安寧を願っていた。田所にとって、見ず知らずの家庭が不本意に自社のネット回線を契約することになっても構わないと感じる為には見る必要があった。

 暫く車道沿いの道を歩いていると傍に墓地があり、間を通り抜けると家屋やマンションが組み込んだ住宅街が広がっていた。一軒、二軒、三軒、、、と訪問して行くが、留守やインターホン越しに即座に断られていく。通りを吹き抜ける木枯らしが唇を乾燥させる。足の親指の付け根が革靴の底で痛む。急な長い勾配の下り坂にこの辺はかつて山間部だったのだろうと感じながら、小学校を横切り、狭い路地へと入って行く。小さな空き地の建設現場の脇にあった自動販売機でホットコーヒーを飲もうかと考えたが、次の住所がすぐ近くだったので歩みを止めることなく赤い屋根の家のインターフォンを押した。直ぐに扉へ駆け寄る足音が聞こえて来ては軽やかに扉が開かれた。

 金木犀の香り、新しい季節を告げる笑顔、楚々たる佇まいの真壁沙恵が田所を出迎えた。彼はオーロラの様に陽を反射させている女の黒髪に見惚れて言葉を失った。自然に真壁の方から優しく促してくれたので慌てて挨拶をした。

 「初めまして、あの、ネット回線のご提案でお伺いさせていただいたんですけれど」

 「そうだったんですか。それでしたら、どうぞどうぞ、寒いので、中に入って下さい」

 田所には一切の躊躇いもなく自分を迎え入れるこの美しい女が一瞬妖艶に映った。不純な思考を振り払うように、全ての住民がこの様に快く迎え入れてくれたならと平和ボケな考えに耽った。差し出されたスリッパは絹で作られていた。リビングに入ると、観葉植物が直ぐ右手の壁の端に置かれ、その横に紺色のソファー、その前に円形のローテーブル、対面に座椅子が置かれている。

 「どうぞ、ソファーにお掛けになって下さい」

 「いえいえ、私はこちらで大丈夫です」

 「そんな、お客様を座椅子に座らせる訳にはいきません。お茶を用意しますからソファーにお掛けになって待っていて下さい」

 「いや本当にお構いなく、大丈夫ですので」

 「いいですから、お願いです、お掛けになって下さい」

 「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」

 真壁が口にする言葉は何かを溶かすようだった。より正確に言うなら白いキャンパスに意味を塗って聞き手に一種の心地良さを与えるものだった。田所は真壁の言葉によって規律に縛られる心が解け、自然にソファーに座った。真壁はその様子を見て満足げな微笑みを浮かべてそのままキッチンの方へと向かった。今日はもとより、彼女の家に訪問する約束でもあったかのような雰囲気に、却って新鮮な心地がしていた。5分程待っていると、やがて仄かに甘く香る白桃烏龍と最中を携えて真壁はやってきた。

 「それで、お名前はなんとおっしゃるのですか?」

 田所は相手方から関心を抱かれ内心驚いたが、彼女のここまでのおもてなしの様子を見るだけでも整合性は十分だった。

 「すいません、申し遅れました。私、株式会社N営業担当の田所翔平と申します」

 真壁は彼から名刺を受け取ると笑みを浮かべ丁寧に眺めた。

 「田所さんとおっしゃるんですね。私は真壁沙恵といいます。よろしくお願いします。田所さんはどちらの生まれなのですか?」

 「私は西の方で生まれました。就職を機にこの辺りの町に引っ越してきました」

 「西の方ですか。私は北の生まれなんですよ。私達は、お互いこの町にとっては邪魔者ですね」

 邪魔者、今までの柔和な真壁から出た、「邪魔者」という言葉は明らかに異様な質感を持っていた。

 「そうでしょうか。私は妻と共にこの町にやって参りましたが、福祉も充実していますし、周りの方々も親切にしてくださっています。邪魔者のような扱いは受けていると感じたことはありません。真壁さんはこちらに越してから、何かお困りごとがございましたか?」

 「いいえ、何にも不憫な思いはしてないですよ。田所さんのいう通り、ここは本当に良い町です」

 嘘だ。田所は直感的にそう感じた。綺麗な笑顔の裏に底知れぬ深いイデアが流れている。そして、これ以上踏み込めば足場を失う。

 「あの、今はどのネット回線をお使いになられていますか?」

 彼女は声を出して笑った。

 「何もそんなに急がなくて結構ですよ。私は、必ず契約しますから」

 「えっ。本当ですか?」

 「はい、ですので契約書などを準備していただけますか?」

 「勿論です」

 田所は脇に置いていた手提げ鞄から一つのファイルを取り出して、そのファイルの一番手前に挟まっている契約書を取り出した。その間に真壁は部屋の脇にある化粧台に座り、鏡を手拭いで磨き始めていた。鏡越しに目が合うと、真壁はにっこりと笑みを浮かべ、

 「この鏡、すっかりと曇ってしまって、全く写らなくなったんですよ」

 とそう言いながら、鏡越しにはっきりと目が合っていた。真壁という女から得体の知れない不気味さが立ち込めた。煌びやかな箱の蓋をほんの少しずらすと毒霧が溢れ出してくる、そんな妖しいことが始まり出していた。

 「とても、綺麗な鏡だと思いますけれど」

 田所がそう発した途端、真壁は手拭いを拳に巻き鏡を狂ったように二、三度殴った。

 「どこが!どこが!そんな馬鹿なことを言うのは、やめて下さい!」

 血相を変え、目を見開き、無数の放射状にひび割れた鏡を背に拳から血を流す真壁の視線は、田所の目を手枷足枷で拘束したように捉えた。田所は慌てて、契約書とファイルを鞄にしまい走ってリビングを抜けた。しかし、玄関が無くなっていた。目の前にあるのは灰色の壁。自分が履いていた革靴も無い。振り返ると、真壁は血で濡れた手拭いで再び鏡を拭き続けている。

 「あの、どういうことなんですか?」

 「私にも分かりません」

 「ふざけないでください!」

 「私は、北の生まれと言いましたよね。つい先月のことです。故郷に帰りましたところ驚きました。実家を探すのにとても苦労しましたから。見慣れた家屋は一つ残らず建て替わっていました。沿線も道路もショッピングモールや学校も、馴染みのあった所は全て変わり果てていました。西はどうですか?」

 この女は一体何の話をしているのだ。田所は眩暈がして一刻も早くこの家から出たくなった。だが真壁の掴みどころの無い落ち着きと、言葉のイントネーションやトーンは田所の記憶にある幾つもの情景を朧げにさせた。

 「私が生まれ育った所も多少は変わっていきました。でもそれは、街の発展ではないでしょうか。私達がより暮らしやすいように、整備したり施設を建設したりしていった結果じゃないでしょうか」

 すっかり鏡は血で真っ赤に染まっていた。

 「よく見えるようになりましたでしょう?」

 田所は思わず振り返って再び外に出ようとしたが、冷たい壁のままだった。

 「あなたも気付いているはずです。干渉すること、されること。発展するものされるもの。これら全てが可逆的に働いているということに」

 男は女の話に耳を貸そうとせずに扉があった辺りを撫でてドアノブが目に見えていないだけではないかと無様に探し続けた。

 「私たちはお互いに異物なんですよ。他人の心臓や脳が自分の体に引っ越してきたら、いくら害を為さないとしても、気味が悪くて仕方ないでしょう。早く契約書を出して下さい。私は必ず契約すると言ったじゃないですか」

 「結構です!大丈夫ですので、お願いですからここから出して下さい!」

 女は高らかに笑い、真っ赤な布で口元を覆った。

 「あなたから来たんじゃないですか。私は頼んだ覚えはありませんよ。それで私がお受けすると言っているのに、どうしてあなたが拒んでいるんですか」

 田所は、汗で濡れた手で契約書を取り出してペンと共にローテーブルの上に置いた。

 「じゃあお願いします」

 「説明して下さらないのですか?」

 「必ず契約すると言ったじゃないですか」

 「そうであれば説明が不要になるのですか?」

 「すいません。失礼致しました」

 男は躊躇いながらパンフレットを取り出し説明を始める準備をした。その様子を微笑みながら見守り続ける女。何かの罰を受けているのだろうか。

 「そうだ、田所さん。私、パエリアを作ったのを忘れていました!是非、食べていって下さい」

 「いや本当に、お気遣いなく大丈夫ですので」

 「ほら見てください。貴方のせいで、流転がズレてしまったのです。私がせっかく合わせようと思っても、貴方は拒絶するばかり。ああ、どうしましょう。もうパエリアじゃなくなってしまいました。このままじゃ、貴方の奥さん、美香さんにも変化が訪れるかも知れません」

 「どうして妻の名前を知っているのですか?何が目的ですか!貴方一体誰なんですか!」

 「私は赤の絵の具です。嘗てはみんなそれを知っていました。貴方も知っていたはずです。しかし、皆子供の頃に奪われてしまった。発展は私の故郷を破壊する。私が住んでいた街に帰ったの。私が見て感じて育った景色は何処にも無かった。分かる?戦争や災害があった訳じゃないの。復興を重ねて変わって行ったのではなくて、合理性を追求して変貌して行ったの。それほどに悲しいことがある?この家も発展し続けるでしょう。美香さんもそれは同様です。そして、それは貴方自身が望んだことです。私の所為でも美香さんの所為でもありません」

 「もういいです、お願いです、ここから出して下さい!お願いします!」

 男は目に涙を潤ませ土下座して懇願した。

 「まだ分からないのですか!誰も貴方の懇願や安全に耳を傾けません!貴方だってそうじゃないですか!」

 女がパエリアを取ると、グリルプレートにはいっぱいの赤い絵の具で満たされていた。そのグリルプレートを持ったまま、女は部屋を出て、横切る時でさえ田所には見向きもしなかった。女が歩いた後の道には、赤い足跡がくっきりと残されていた。女が2階へ続く階段を儀式のように慎重な足取りで上がると、時が止まったように物音がしなくなった。男が暫く呆然と立ち尽くしていると、階段から赤い絵の具がゆっくりと垂れ始め、貪るように木造の階段やフローリングを真っ赤に染め上げていく。軟体動物のようなうねりを続ける絵の具は恐らくあの女なのだろう、しかし、男には美香の一部でもあるような気がした。だが次の瞬間、大きくうねった拍子に男にかかったのは上司の吐息のようでもあった。その時、男が感じていたのはこの赤い絵の具に飲み込まれてしまう恐怖ではなく、色を持たぬ自分自身の素体に対する孤独感だった。そして、それは男を誘うようにいつまでも流れ続けていた。

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