飼育箱

 鉄琴で奏でられたチャイムが校内に鳴り響く。足早に教室に戻る生徒に紛れて、私も自分のクラスへと急ぐ。定間隔に備え付けられている窓から白い光が差し込む廊下を駆けて教室に入る。あまり目立たないように、すり足で自分の席まで移動して素早く、丁寧に着席した。チャイムが鳴り終わり程なくして、先生が教室に入る。戸を閉める際の木が擦れる音を合図に、私語を止めて、学級委員が号令をかけて起立する。先生が教壇で立ち止まると、礼をして着席する。先生は出席の確認をして、 朝のホームルームを始める。月末には模試があるので、各々不安な科目を洗っておくようにということと、一階の男子トイレで水が流れなくなったので使用禁止になったということと、進路希望を今週末までに提出するようにという3点を形式的に報告した。他に報告することがあるかと、ワザとらしく考える素振りを終えた後、今日も1日、頑張りましょうと告げて教室を出て行った。先生の足音が遠ざかっていくのを合図に教室の中では、また雑談が始まった。斜め後ろに座る茜が私の肩を指で突いてきた。

 「ねぇ香織。昨日のヒットチャート見た?」

 「見た見た。超格好良かったよね!」

 「うん!新曲やるところ初めて見たけど、ダンス凄いキレがあったよね!」

 「デビューした時よりも上手くなってたよね」

 「ほんとにほんとに」

 「智くんのソロパートの時の歌声と表情、格好良かったよね」

 「真剣な表情からの横顔の笑顔、あれは見惚れちゃうよね」

 私たちが盛り上がっていると、最前列の京香が照れ笑いを浮かべながら、小魚が泳ぐように歩み寄ってきた。

 「ねぇねぇごめん。今日の古典の課題見させてくれない?」

 京香の長い髪が揺れ、アプリコットの香りが仄かに漂う。悪戯な笑顔には、安易に人に頼る卑しさの翳りは無く無邪気さだけがあった。私たちは二人して鞄を漁り始め、どちらが早く取り出せるか競走してプリントを探した。茜が差し出すと、京香は訪問販売者のように礼を言って、また魚の様な流動性でささっと自分の席に戻り、急いで書き写し始めた。

 「京香部活で忙しいもんね」

 「ね、あの元気を少し分けて欲しいよね」

 茜は脈絡なく、話題を変える。

 「そういえば、健くんとはどうなの?」

 「どうなのって、普通だよ」

 平然と振る舞いつつも照れを隠しきれなかった私は少し早口になった。

 「電話とかするの?」

 「時間が合えば毎日してるかな」

 「いいなぁ。私も彼氏欲しいなぁ」

 「茜は好きな人とかいないの?」

 「相馬君のような人がいたらな」

 「次元超えちゃってんじゃん」

 「なんかもう最近はバーチャルでいいやって感じだよ」

 「何その究極の現実逃避」

 1限目のチャイムが鳴り、会話は中断され、私たちは鞄の中から化学の教科書とノートを取り出す。クラスの殆どは会話を辞めて、手持ち無沙汰にノートを開いたりしているが、茶髪の男子数人は未だに後ろの席に固まり、内輪ノリで大袈裟な笑い声を教室に響かせてる。前の席で坂口さんが、彼らをウザそうに一瞥したのを私は見逃さなかった。先生の足音が聞こえてくると、彼らは甲虫のような俊敏さで散って席に戻る。

 今は無機化学の範囲で、実験に使われている化合物から、実験名や生成物を推測する問題を先生がストーリー仕立てに解説する。

 一限目の授業が終わると、私は隣のクラスの健に会いに行った。窓辺に座る健は机に腕を伏して頭を乗せていた。私が隣に座り話しかけても、ゆっくりと頭を上げた後、ぼんやりと外を眺めているだけだった。

 「ねぇ、どうしたの?何かあったの」

 健は、初めてこちらに顔を向けて、私をじっと見た。頬を強張らせ、彼の目は私の眉や顎の先まで仔細に観察していたので、火が通ったように自分の頬が赤く染まるのを感じた。

 「なによ」

 私は、彼から視線を逸らして、黒板横の壁に貼られている時間割表を見つめた。

 「昼休み、ご飯を食べ終えたら、使用禁止になった男子トイレ前に来て」

 彼の今までにない提案に、私はまた彼と向き直った。

 「どうして?」

 「話したいことがある」

 よく見ると彼の目は充血していて、黒目から放射状に赤い線が伸びていた。昨夜は一睡も出来なかったのだろうか。今の彼からは、いくら言及しても答えが返ってこない事は明白だった。私は励ますように、分かったと返事をして、自分のクラスに戻った。

 授業には全く集中出来なかった。昼休みになると、別校舎にある食堂に行って、南蛮定食を食べ始めた。半分程度食べたところで空腹状態が終わり、途端に目の前の鶏肉やそれにかかったタルタルソース、添えられた千切りキャベツが道端の溝に生えた苔のような質感に変わってしまった。罪悪感を覚えつつも返却口に返して、健が言っていた一階の男子トイレへと向かった。渡り廊下を歩きながら校庭に目を向けると、桜の花が風に吹かれ、ひゅるひゅると薄桜を灰色のアスファルトに広げていた。

 使用禁止になった男子トイレは、私たち二年生の教室がある棟の一階にある。そもそも各階の中央階段の横にはトイレがあり、一階は茶道教室と昔は何かに使われていた空き教室があるだけで、元々利用する人がいなかった。普段も校舎と棟の二階に掛かっている連絡通路を使うので、一階に訪れることがほとんどない。そんなことを思い返すと、見慣れた場所に、自分がまだ把握出来ていない領域があるのではないかと、奇妙な緊張感を覚えながら一階へと急いだ。

 階段を下りてトイレの方へ振り向くと、入口前で健が立っていた。健は私に挨拶することなく険しい表情のまま、階段を見上げて、誰かが付いて来ていないかを確認した。人の様子が無いことを確かめると、こっちに来てと呟き、階段下の僅かな空間に誘導して膝をたたんで座った。その際、私が階段の裏側に頭をぶつけないように、そっと手を頭に翳してくれるのを見て、私のことが嫌いになったわけじゃないんだと安堵した。

 「時間がないから手短に話す。集中して聞いて欲しい」

 「うん、分かった」

 「左耳の耳たぶの、少し上の裏側を触ってみて。何かコリコリとしたものがない?」

 私は言われた通りに自分の左耳の耳たぶを触ってみた。確かに耳たぶの始まりの方にゴマのような大きさで固い感触のものがあった。

 「うん、あるよ」

 彼は制服のポケットから、さっき私が耳たぶで感じた大きさのモノを取り出した。

 「何これ?」

 「1週間前、気になって取り出してみたんだ。なんだと思う?」

 私に向けられたその銀色に光る小さな粒を私は凝視したが、それが何であるか皆目見当もつかなかった。私が黙って眺めていると、健はこのゴマに服を着せるように情報を追加した。

 「俺たちの身体に幾つかの影響を及ぼしているマイクロチップなんだよ」

 「え、どういうこと?」

 彼は充血した目を見開いて、唾を飲み込んで話を続けた。

 「これを取り出した日、身体に大きな変化があったんだ。唐突かもしれないけど、香織は、朝起きてから寮を出て学校に来るまでの記憶を鮮明に思い出せる?」

 私はそう言われて、必死に思い出そうとした。だけど、どう思い返しても、今朝のチャイムが鳴ってからの記憶しか鮮明な手触りが無かった。しかし、今健にこうして聞かれるまで、そのことに対する違和感も抱かなかった。寝ている間のような曖昧な時間が、意識がある時間の中にもあると不意に証明されたような感覚だった。

 「いや、思い出せないかな」

 健は思考が追いついていない私に気遣うことなく、続けて質問する。

 「じゃあ、寝る前の記憶は?」

 なんだか生活に潜む深淵を覗くことを促されているようで慄き始めていた。そんなSFみたいな不安など軽く払拭したかったけれど、寝る前の記憶もまた曖昧だった。寮のベッドで横になってからの記憶というのが一切無かった。まるで体を横たえた途端に電源を落としたかのように、私の記憶は途絶えていた。可笑しなことに、これも思い出してみてと言われるまで不思議と違和感を抱いていなかった。

 「え、どうして思い出せないんだろう」

 「これが関係しているんだよ」

 「嘘でしょ」

 健の窶れた顔色には、この1週間、悩み抜いた末に抱いた推論が滲んでいた。

 「これを取り出した当日の夜、同じ部屋の林と雑談していて、そろそろ寝ようかとベッドに入ったんだけど、なかなか寝付けなかったんだ。それで、林の様子を伺ったら数分も経っていないのに眠っていて、いくら話しかけたり体を揺さぶってもスイッチを切ったように反応しなかった。だけどその時は、ただ林の眠りが深いだけなんだと考えていた」

 「待って、そのマイクロチップが人を眠らせているって言うの?」

 「うん。それに眠らせているだけじゃない。朝、物音がするなと思って目覚めたら、林が目の前でゼンマイ式のおもちゃみたいな動きで服を着替え始めていた。野暮だけど、「おはよう」って声をかけても反応は無かった。怖かったけど、違和感のないように行動した方が賢明だなって思って、俺も急いで着替えた。

 服を着替え終えた林は、部屋を出て洗面所に向かったんだけど、廊下では、みんなが右手に洗面用具が入った透明の手提げ鞄を持って、等間隔に並んで同じ速度で移動していた。そして統一された動きで歯磨きや洗顔をするんだ。その後、同じような動きで食堂に向かって朝食を済ませる。そして校舎に着くと、速度は一定だけどそれぞれランダムな位置に移動して静止した。それで朝のチャイムが鳴ると、それまで会話してたように自然に話し始めたり、みんなが一斉に自我を持ったように動き始めたんだ」

 「ちょっと待ってよ。そんなこと、ある訳ないよ。それに一体誰が、何の為にそんなことしているの?」

 私は声を震わせて反論していた。だけど健は動じず、諭すように、更に説明を続ける。

 「その辺はまだ、全然分からない。

 このマイクロチップが俺らを眠らせているという説明なんだけど、その日の夜、前日と同じように眠りにつく林を見て、その日あったことを考えていると、とても怖くて眠れなかったんだ。でも、気まぐれにこのマイクロチップを耳たぶの裏に押し当てると、急に意識が遠のき気を失った。」

 私がそのマイクロチップに怯えた表情を見せると、健はポケットにしまってくれた。

 「次の日、理科室にある機械で、これが電波に反応することも確認した」

 ブレザーのポケットを安全だと誇張するように叩く。

 「そんな機械あったの?」

 「盗聴器とかの反応を確かめる授業があったでしょ、あの機械を使ったんだ。このマイクロチップが具体的にどんな信号を返しているのかまでは分からないけど、関係あるということは確かだよ」

 健の憔悴しきった顔を見ると、一人でこの事実に直面していたことが窺えて気の毒でならなかった。それでも尚、私は未だに、この話が健の妄想であって欲しいと心の底では願っていた。

 「今からする話が一番、重要なんだ」

 「え、まだあるの。私もう凄い怖くなって来たんだけど」

 「一昨日の夜、みんなが寝た後に部屋を出てみたんだ。時間は0時を回っていたと思う。男子寮の建物ってU字型になってるだろ。俺の部屋は四階のちょうど真ん中辺りなんだけど、寮の右側の廊下を窓越しに眺めたら人影のようなものがあったんだ。先生が見回りでもしているのかなと思ったから、慌てて咄嗟に身を屈めて隠れた。でも気になったから、ゆっくり頭を上げて覗いてみたら、見たこともないロボットが寮内を巡回してたんだよ!」

 「ロボット!?健、待ってそんな話信じれないよ」

 内心では信じかけているけれど、耐えきれない事実を目前にして、その存在を否定するように私は呆れた調子で答えた。

 「今は、信じれなくていい。俺と同じクラスに松田っているんだけど、昨日の朝、顔を洗う時に、目が合ってお互いに意識があることが分かって色々話してたんだ。それであいつ、ここから抜け出すって言い始めて。俺は危険だからやめた方がいいって止めたんだけど、あいつ1ヶ月も前から取り出したらしく、それで相当参ってたみたいで。夜、心配になって部屋から出て、あいつの様子を確かめようとしたんだ。あいつの部屋は二階なんだけど、廊下を走ってる姿が見えて、ここから抜け出せるかもしれないということに対する希望を抱いていたら、あいつロボットにバレて、数体に即座に囲まれた後、無惨にも捕まって何処かに連れ去られたんだ。その時にあいつが幾ら声を張り裂けて叫んでも、寮内がしんとしている異常さに、俺は震えながら自分の部屋に戻って、毛布にくるまって朝まで過ごした。それで、今日学校に来たら、あいつは転校したことになっていた。

 それに、俺たちってこの学校に入ってから、敷地の外に出たことがないよな?テレビとか、ネットで外の情報に触れることは出来るけど、自分がその情報を目の当たりにしたことがないんだよ」

 「ねぇ。私もう怖いよ。この話やめよ」

 「香織。俺は、この学校から出ようと思う。あのグラウンドの端にあるフェンスから出て、教室から見えている街に行こうと思う」

 「やめてよ。今はまだ信じれないけど、もしも、健の話が本当で、そのロボットにバレたらどうするの?」

 「これを取り出してから、自分が置かれている状況の方が恐ろしいんだ。もしかすると、俺がマイクロチップを外したことは俺たちにこれを植え込んだ奴らにバレてるかもしれない。

 ねぇ、俺は香織のことが好きだよ。だから本心を言うけど、出来ればついて来て欲しい。こんな突拍子もない話を受けて、何も信じられないと思うし、俺が変になったと思うのも分かる。だから、今日一日、香織が自分で考えて、もしも俺のことを信じてここから出たいと思ったのなら、夜の1時にここに来てほしい。連絡通路は使わずに、寮から出来るだけ目立たないようにして。勿論無理強いはしない。俺一人でここから出て、安全が確保できたら、必ず迎えに来るから」

 「うん、分かった」

 健は長いため息を吐いた後、「そろそろ戻ろうか」と空気を震わせる最小限の力で呟いた。

 六限目の授業が終わり、自分の部屋へ帰ると私は紙とペンを取り出して現状を整理することにした。健が言っていた通り、私たちは半強制的に眠らせ、朝の始まりもある程度のところまでプログラムされ動いているのだろうか。それに健が言っていた松田くんを攫ったロボット。耳たぶの裏を触れば、正体不明の違和感を確かめることができた。私は自分が体験してきた事に対する確信を得たいという思いと、自分の両親なら何か知っているかもしれないと藁にも縋る思いでスマホを取り出し、母に電話することにした。母は3コール目で出た。

 「もしもし?」

 「もしもし、お母さん。何してたの?」

 「テレビ見てたところよ。何かあったの?」

 「うんう、別に大丈夫だよ。ちょっとお母さんと話したい気分なだけ」

 「寂しくなったの?」

 聞き慣れた親しみ深い母の声を聞くと、健の話は、思い込みで生まれた妄想に違いないと思えるようになっていた。だけど、今の私には、もっと強力的な体験記憶が必要だった。

 「それもあるけどね、あの、今度学校で自分の子供時代のエピソードを英語でスピーチしないといけなくて、何か覚えていないかなと思って」

 「英語の授業でそんな課題があるの?」

 「うん」

 「英語の先生って誰だったけ?」

 訝しむ母の声を聞くと、健の妄想じみた話が真実の羽衣を着て私の前に立ち上がりだすのを感じた。

 「前田先生だよ、どうしてそんなに気になるの」

 「お母さんは、心配なだけだよ」

 上手く返す言葉が見つからず微妙な沈黙が流れる。

 「そうねぇ。香織が小学一年生の時かな。学校の帰りに、自分の家がどこか分からなくなってね、道行く人に、香織の家はどこですか?って泣きながら聞いていたのよ。そうしたら、たまたま近所の人に声をかけて、その佐藤さんって言うんだけどね、家まで送り届けてくれたのよ」

 「あー、そんなことあったね」

 私は記憶が曖昧だったが適当な相槌を打った。その後、自分の不安が見抜かれないように、早急に話を終わらせて電話を切った。そのままインターネットブラウザを開いて、「エピソード 子供 迷子」と検索した。上位に表示されたサイトを開くと、子供の迷子エピソード集15選というタイトルの記事だった。その中の5つ目が、母が話したエピソードと酷似していた。私は自分の両親の顔や家の中の家具の配置や近所の様子を思い出すことは出来ても、家の中の匂いや、外に出た時の風の肌触りや、通りの道草が太陽に照らされ漂う香りは一切思い出せなかった。もはや、自分が今までどの様にして成長して、この学校に通う様になったかということを確信を持って言葉にすることが何一つできなかった。そこには情報しか持たない言葉があるだけで、体験から生成された言葉は何一つないような気がしていた。

 とうとう私は、マイクロチップが自分にもあるかどうかを確かめることにした。鏡の前に立ち、左耳たぶをしきりに触ったものの、実際、どうすればいいか分からなかった。私は健に、ナニモノかに監視されてる場合を危惧して、「じゃがいもの芽は、何を使って取ればいい?」とメッセージを送った。すると、一分もしない内に、「安全ピン」と返ってきた。

 化粧台に置かれた名札に付いている安全ピンを手に取る。もしも取り出して、何も無かったら、健をボコボコにするだけだと、激痛に覚悟を決めた。コリコリした部分の少し下を耳たぶの裏から刺して抜き、コリコリしたものを上側から押してやると出てきた。耳は獣に噛まれたようにジーンと痛み流血しているがあまり気にならなかった。取り出したものを机に置き、ティッシュで拭くと、健が見せてきたものと同じものだった。ため息を付いていると鏡越しに、勢いよく耳から血が垂れ化粧台に滴り落ちていることに気付き、急いでティッシュで止血した。この小さな粒が、今まで絶対的な事実であった世界の様相を瞬時に砕き、何か一つでも情景を思い浮かべようとするとぐにゃぐにゃに溶けて形を無くした。左目からは痛みで涙が溢れていたが、拭う気にもなれず、しばらく呆然としていた。

 夕方になって、同じ部屋の舞が帰ってきた。耳の絆創膏を見て驚いていたので、髪を切ろうとしたら、誤って耳を切ってしまったと適当に説明しておいた。私は夜、舞が気を失ったように動かなくなったら、健を信じることにしていた。舞はバスケットボール部に所属していて、練習が18時ごろまである。部屋に帰るなり、風呂場に直行するのが習慣で、私も一緒にお風呂へ入りに行く。だけど、この日の私は、この世界に対する大きな疑念に直面した日であり、それは当然の如く自然の摂理だけでなく、人の存在にまで及んだ。舞から話しかけられる度に、貼り付けたような微笑と当たり障りのない返事を繰り返すことで精一杯だった。

 夜22時、消灯のチャイムが鳴り、私たちは就寝準備に入る。いつもは、このチャイムを聞くと自然に身体がベッドへと赴いていたけど、今日は自分の体を意識的に動かす必要があった。舞が部屋の明かりを消すと、ベッドに横たわる。寝巻きの左胸のポケットに忍ばせていたマイクロチップを右手で確かめながら、十秒ほど経過するのを待った。

 「舞、もう寝た?」

 舞からの返事が無いので、「舞。舞!」 と強く呼びかけてみたが依然として返事はなかった。私は起き上がり、スマホの明かりを頼りにして舞に近づき、毛布の左上部からはみ出てる左腕を掴み振ってみた。舞の体は、人形のように空っぽで脱力していた。SFのような妄想は今はもう妄想ではなくなった。生きる実感を得るには、何が真実であるのかをこの目で確かめなくてはいけなかった。舞の腕を毛布の内側に戻すと、ここを出る準備を始めた。

 ショルダーバッグの中には、財布、スマホ、モバイルバッテリーだけを入れた。服は、体操着のジャージに着替えておいた。まだ約束まで、二時間半もあり、健に連絡したかったけれど、監視されているかもしれないのでやめておいた。だけど、部屋で定刻まで大人しく待つ冷静さまでは持ち合わせてはいかなかったので、英語の教科書を取り出して、ノートに英文を只管に書き写し続けた。

  中指と人差し指の先が、ペンを握る圧で赤く腫れて痛み、反射的にペンを手放すと机を転がり置き時計にぶつかる。時刻は、「0:45」と表示されている。ずっと一時を待つこの時間が続けば良いのにと内心では望んでいた。ショルダーバッグを身につけて慎重に部屋のドアを少し開けた。廊下には人影もロボットも見当たらなかったので、ドアを大きく開けた。その瞬間、左側にある階段を上がってくる足音のようなものが聞こえてきたので、ドアをギリギリまで閉じて、その姿を確認した。階段を上がってきたのは、全身を銀色に輝かせる巨大なロボットだった。バスケットボールのゴールリング程の高さがあるその図体は怪しげな光を体の細部から無数に煌めかせ、背中には銃器のような形をしたものを背負っている。ロボットがこちらに振り向く前に、音が出ないようにドアノブを下げたまま、手術をするように精密な動きでドアを閉じた。

 深呼吸しながら、ロボットが通り過ぎるのを待つことにした。アームが曲がる際の機械音や重厚な足音は、ドア越しでもしっかりと聞こえた。徐々に音が遠ざかり聞こえなくなると、再び慎重にドアを開けて、廊下の右側を確認した。ロボットは丁度突き当たりまで進み、左の通路へと歩き始めているところだった。しゃがんだまま、決死の思いで走り、左の階段を下り始めた。踊り場では一度止まり、下の通路をロボットが通り過ぎるのを待った。一階の管理員専用入口から、寮を出ると、壁伝いに身を屈めせて歩いて行き、校舎との間にあるプロムナードを必死に走り出した。しばらくすると、寮からサイレンの音が鳴り始めた。一度振り返ってみたが、寮のどの部屋にも灯りは点いておらず、最上階の廊下の窓から、一体のロボットが頭部を光らせ私を視認していた。

 校舎へとたどり着き、中には入らず、側の茂みに身を隠すように入って行き、木の影に隠れながら、目前の棟を目指した。背後からは、私を追いかけて来たロボット数体が校舎の中に入って行く。私は猫の忍足のような動きで一階のトイレの近くまで歩き続けた。

 健の姿は確認出来なかった。スマホを取り出して時間を確認すると、0時55分だった。トイレ前に座り込み、「着いたよ」とメッセージを送って静かに待つことにした。

 1時になっても彼はやってこなかった。「大丈夫?」「何かあった?」とメッセージを送っても、既読にすらならなかった。もしかすると彼は先に行ったのだろうか。それともここに来る途中で見つかってしまったのだろうか。色んな不安に押し潰されそうになっていたころ、健からの返信が来た。

 「どこにいるの?」

 私は全身から寒気がした。これは、健からの返信ではない。健の身に何が起きているのは分からないけれど、ここから早く抜け出さなければいけなかった。校舎や上の教室では、捜索している様子で、教室を開けて机を荒らす音や廊下をかける音がこちらにまで響いていた。私は一番近くのフェンスを超えることにした。3m程の高さをよじ登っていると、足がフェンスを叩く音で気付かれ、4、5体のロボットがこちらへ向かい始めた。否応無しに飛び降り、林の中を懸命に駆け始めた。

 凹凸が激しく足場が悪い道を側の木に捕まりながら、降っていくと徐々になだらかな土地になってきた。一度足を止めて振り返ると、どうやら追いかけて来てはないようだった。街の方を眺めると、遠くの方にまだ灯りがついたビルやマンション、電波塔が見える。あと少し進めば木々から抜け出せて通りに出るようだった。私は安堵して、歩き始めた。しかし、斜面は無くなり平坦の道を15分歩いても木々は続いていた。また焦燥感に駆られ走り始めた。すると周囲に木々は限りなくあるが、踏み続けていた落ち葉や枯れ枝が無くなっていた。さらに進みつづけると、木々は疎になっていき、やがて無くなったが、一向に暗闇は続いていた。スマホを取り出してライトをつけ、足元の褐色土を照らしながら走り続けた。だが次第に、地面の土も木々の匂いも無くなった。地面を照らしても土ではなく暗闇があるだけだった。振り返ってみても走ってきた筈の林も無くなり、私は完全に暗闇に閉ざされていた。悲しくて怖くて子供のようにしゃがみ込んで泣き始めた。泣きづつけていると、前方から気配がして顔を上げると健が立っていた。私は泣きながら彼に駆け寄った。

 「健!怖いよ。ここどこなの?私、健を信じてここまで頑張ってきたんだよ」

 もう一人では、どうにも出来ず、健に守って欲しかった。健は両手で私の肩を掴み、優しく見つめた。

 「君、どうしてこんなとこにいるんだい?ダメでしょ。ここに来ちゃ。一緒に帰ろうね」

    コメントを残す

    Diary

    前の記事

    2024/05/11 絶望の覚書
    Novel

    次の記事

    星座