2024/05/11 絶望の覚書
目に見えない絶望は救いようが無いのか。
昔に比べて、所謂厨二病と呼ばれるような世界に絶望するという思考は減りつつあるように思う。
それでも時折、暮らしの中に潜む、どうしようもない常識と対峙した時には嫌でも考えてしまうのだ。
アルバイト先に19歳の男の子がいる。彼は正社員として働いている。朝の7時に出勤し、夜の8時まで勤務する。それが週5日あり、もう1日は半日と呼ばれている13時までの勤務だ。つまり週6日は勤務しなければならない。
しかし、本人は別にこの労働に絶望している訳ではないように見える。この仕事は楽しいし好きでやっていると。
昨日彼は風邪を引いて早退していた。今日私は夕方からシフトで、当然休んでいるのだと思ったら、彼の姿があった。すれ違いざまに、「体調は良くなった?」と聞くと首を横に振って、立ち去ってしまった。
顔色も悪く、いつもより動きがおぼつかない様子だった。他の社員の様子もいつもより元気がなく、どうやら一人が風邪を引いてそれが広がっているらしい。
労働者が精神的にも肉体的にも健康的な状態ではないのに、働かなければならないとは、なんと辛いことだろう。
数年前に、Youtubeで昔やっていたテレビ番組「マネーの虎」のモンゴルタクシーの回を思い出したのだ。
志願者の方は、モンゴルにいる子供達は、お父さんが働きたくても何をすれば良いか分からないから酒に溺れ、妻や子供に暴力を振るい、ストリートチルドレンになってしまう現状をタクシー会社を作ることで雇用を生み出し、健全な家庭環境や貧困を救いたいと仰っていた。さらに運転手にはある契約期間を満了すると車を譲渡するという話だった。
突然どうしてこんな話を思い出したのかというと、このモンゴルでのストリートチルドレンの問題は、明らかに視覚化されていて、雇用を作り貧困から多くの人を救い出すことで改善されることが明らかだ。
しかし、私が今日見た労働における絶望も、形は違うけれど同じに見えるのだ。
そして、これはどう救えばいいのだ。
芸術とは非常に受動的なものである。鑑賞者が積極的になって接近しなければならない。一切を求めていない人達には、何の役にも立たないではないか。
こういった問題を考えている時、決まっていつも同じ答えに辿り着く。
「意味を考えることは無意味だ」