ToiReincarnation

猫は可愛い、それはこの世の真理だ。

「…。」

木場塁は携帯で動画を見ている。
もちろん猫の動画だ。

「ふう。」

動画を一旦停止して木場は心を落ち着ける。
猫はなぜこんなにも可愛いのだろう。
その可愛さゆえに人類は猫を世界中のあちこちへ連れて行った。
その結果、多くの現地の在来種が猫によって食い荒らされて絶滅していった。
可愛さとは大地の形すら永久に変えてしまう要素なのだ。

「よーし…。」

彼は猫の動画を見ながら何をしてるのか。
便座に座って気張っていた。
困難なる時間を猫に癒されながら切り抜けるのが木場の日課なのだ。
今回は脱糞タイム。不摂生と加齢のせいで彼の肛門はすっかり頑固になってしまった。

「ああ…!」

食べ物はかみ砕かれ、胃液で溶かされ、腸で栄養と水分を吸収され、最後は便となる。
ようやく肛門から食物のなれの果てが顔を見せた。
まるで石炭のようにカッチカチで出てくるたびに繊細な30代の肛門を傷つけるのだ。

「ぐあああ…!」

痛い。
まるで拷問を受けているかのようだ。
極度のマゾヒストであれば喜悦に満ちるのかもしれないが、あいにく木場は違う。
ただひたすら肛門の激痛に耐えながらひたすら気張る。

”にゃー。”

動画で流れる猫の愛くるしい声を聞きつつ、木場は耐え忍ぶ。
顔を脂汗でまみれさせながら、苦痛をついに最大限を迎えた。

「ああああああああ…!」

咆哮と共についに苦難を乗り越えた。
ようやく便を出し尽くした。

「はあ、はあ、はあ…。」

木場は便座から立ち上がって振り返り、成果を確認した。
水分が抜け切った鈍器にも使えそうなほどに堅そうだ。
木場は水を流し、体内で錬成された汚物を下水道へと流した。

”にゃー。”

疲れ果てた木場を唯一癒してくれるのは動画の猫だけだ。

木場の家は街中のマンション3階の一室だ。
体調がすぐれぬゆえに掃除する気にもならず、散らかりっぱなしの部屋で木場は出勤の準備を整えていた。

「いってえ…。」

忘れずに肛門に軟膏を塗りたくる。
これをやるかやらないかで彼の一日は大きく左右される。
やらなければ肛門の痛さで仕事もろくに集中できなくなる。

「はあ…、うん?」

これで今日も一日落ち着いて仕事できる。
そう安心した直後、気になる音が窓から聞こえた

「にゃんこ?」

カーテンを開けばベランダに猫がいる。
その顔は俯いているが猫以外の何物でもない。

「なんで?」

この部屋はマンションの3階。
いくら身のこなしが軽やかなにゃんこでも3階のベランダに到達するのは奇妙だ。

「かわいそうに。降りられなくなったんだな。」

木に登って降りられなくなった猫を助ける。
よくあるシチュエーションだ。
今回は木じゃなくてベランダだったということ。
木場は哀れな猫のために窓を開いた。

「う!?」

生物にとって嗅覚は最も原始的で本能に訴えかける感覚。
窓を開いた直後、耐えがたい悪臭が木場の鼻を通して脳を貫いた。
例えるなら腹を下した際の糞便、朝起きた時の唾液、放置された尿。あらゆる生物が体内で湧き出る分泌液が濃縮されたかのような臭いであった。

「おえ…!」

木場は不意の一撃に打ちのめされ、鼻を抑えて床に倒れ込んで10秒ほどのたうち回った。
猫は手を出すこともなく木場をノックアウトしてみせた。

「ん!?」

衝撃はまだ続いた。
顔を上げた猫の目だ。ばっちりと開いたまん丸の目。黄色い眼球に、針のような瞳孔。
猫というより蛇のような目だ。

「ひいいいいいいい!」

猫の次なる動きはついに木場に悲鳴を上げさせた。
猫はカメレオンのようなビローンと伸びる舌を口から出し、自分の目玉を舐め回したのだ。
間違いなく、この動物は猫ではない。

「どっか行け!行けよ!」

目前にいるは未知なる存在。
もしかしたら凶悪な病原菌を持ってるかもしれないし、人類殲滅のための生物兵器の可能性もある。

「ひい!来るな、来るな!」

だが猫は木場の想いに反して部屋に入り、木場へと近づいてくる。
木場は携帯を振りかぶり、投げつけようとした。

「どっか行け、どっか…。」

しかし携帯が投げられることは無かった。
猫は仰向けに倒れたままの木場の足に頬を摺り寄せてきた。
まるでご主人になつく飼い猫のように。

「かわいい…。」

木場はすっかり恐怖が消え失せてしまった。
なんとも愛くるしい仕草。ずっと動画で見てきた可愛い猫そのものだ。

「お前は猫だ…。」

これは怪物などではない。少なくとも木場にとっては。
たとえ臭くても、爬虫類っぽくても。

「にゃんこ…。」

木場は猫へと手を伸ばした。
そして猫もまた前足を伸ばす。
足の裏にあるはなんと肉球ではなかった。細長いものが、洗濯板のように並んでいる。
まるで壁にひっつくヤモリ。この足裏を持っているからこそ3階までこれたのだろう。

「ついに俺にも…。」

目、舌、足裏。異形の数々を見てももう木場は動じなかった。
彼にとってこの生物は猫なのだ。

「うお!」

ついに猫と通じ合うかと思われた直前、ドアベルが響く。
訪問者だ。

「は、はい!」

木場は猫と玄関を何度も見比べ、訪問者を優先して玄関へと向かった。

「どなたでしょうか?」

木場は玄関のドアを開いた。
それはなんとも奇妙な訪問者だ。
雨が降ってもいないというのにレインコートを着ている。
しかも深くかぶっていて顔が見えない。

「…。」

何もしゃべらない。

「何の用で…、う!?」

そして臭い。

「すいません。急いでて…。」

「人違いでした。」

レインコートの訪問者はそれだけを言うと逃げるように立ち去るのだった。
木場はただただ鼻を抓むだけであった。

「なんなんだよ…。」

「おーい、にゃんこ!?」

部屋に戻ればもう異形の猫はもういない。
まるで悪夢のような出来事であったが、夢ではない。
一匹と一人の臭う訪問者が去ったが悪臭だけは残っているのだから。

「逃げられちゃったか…。」

※ ※ ※  下水処理場  ※ ※ ※

木場が務めるのは下水処理場。
人々が垂れ流す糞便、生きていく上で出てくる生活排水は下水道へ流れる。
そして下水道は下水処理場へと流れ着き、微生物によって浄化されて川や海へと流される。
人類が糞便の処理という大敵との苦闘の末にたどり着いた解決法だ。ある時代では窓から道へぶちまけていたこともある。

「木場さん。すごい顔してますね。」

「ああ…。」

下水処理場は多くの機能をコンピューターで制御している。
大モニターが鎮座し、コンピューターが並ぶ中央監視室の椅子で木場は憔悴していた。
後輩に心配されるほどだ。

「今日は休んだ方がいいんじゃないですか?」

「いい。仕事してた方が気がまぎれる。」

確かに休みたいが今は一刻もあの朝を忘れたい。
あれは単なる夢だったと思いたい。
ひとまず部屋の臭いが取れ切るまでは帰宅できないのだ。
臭いは記憶を呼び起こすからだ。

「おーい。そこの2人。沈砂池の様子を見に行ってくれないか?」

早速、上司からのご指示だ。
後輩は露骨に嫌そうな顔をしてみせた。

「最近、妙な物を見たって報告が多くてな。監視を強化してるんだ。」

沈砂池。
それは下水処理場で最も地下深くにある施設だ。

※ ※ ※ 沈砂池 ※ ※ ※

「やだな。」

木場と後輩はヘルメットを被り、マスクをつけて階段を下って沈砂池へと着いた。
コンクリートで出来た頑丈な施設である。
まるで工場のように大量の機械が、大量のパイプで繋がっている。

「うるさいぞ。沈砂池なんていつも来てるじゃないか。」

沈砂池は人々が流した下水が最初に届く場所だ。
ここで大きなゴミや異物を装置で取り除く。
いわば最も純粋な下水が溜まる場所である。

「それだけじゃないですよ、木場さん。最近、この街で化け物を見たって話が多くて。それが下水処理場の近くばかりらしいんですよ。」

「幽霊なんていない。」

「幽霊じゃなくて化け物です。」

後輩は携帯を取り出して適当なサイトを見つつ恐怖と臭いを紛らわせる。
苛立っているときは更なる情報を取り入れて飽和させるのだ。

「携帯見るな。」

「でも木場さんだってしょっちゅう猫動画見てるじゃないですか。飯食ってるときにゃーにゃ―うるさいですよ。」

「猫はいいんだ。」

猫はいい。
人間のように悪口を描き込んで、憂さを晴らしたりなどしない。

「そんなに猫が好きなら飼えばいいじゃないですか。」

「いい。絶対飼わない。」

それはまるで鉄の如き意志が乗った言葉だ。

「昔金魚を飼いたいって言いながら結局親任せにしちゃってな。結局死んで俺はペットの飼い主としてふさわしくないって分かった。だから飼わない。」

「昔とは違うんじゃないですか?人は変われますよ。」

当時の木場は小学生。
だが今は当時から3倍の年齢を重ねた。
確かに自分が当時のままというのも変な話だ。

「確かに人は変われるが簡単では…。」

「何すか、あれ?」

2人が見つけたのは沈砂池の床に転がる黒い何かだった。

「くっさ!」

後輩は顔をしかめ、鼻を抑えた。
臭う沈砂池でも一際の悪臭を放っている。
だが木場の方はこの臭いに覚えがある。

「これってにゃんこの…。」

今朝の猫と同じ臭いだ。
木場は下水処理場務めらしく、悪臭にも差異があることに気づける。

「亀だ。」

臭いの元は手足と首と尻尾を引っ込めた亀の甲羅だった。
木場は15cmはあるそれを拾い上げた。

「よく拾えますね。そんな臭いの。」

木場はこの臭いに耐性を得ている。
今朝の事件のおかげだ。

「ああ。色々あってな。」

そう色々あった。家に押しかけてきたのだ。
まるで猫のような化け物が。
するとシャイな亀さんがようやくその顔を見せてくれた。

「ひいいいいいい!」

後輩は悲鳴を上げた。
無理もない。その亀の顔はなんと巨大な虫の顔だったのだ。

「なんですか、それ!?」

なんとも不思議な生物である。
亀の甲羅から顔を出したのは巨大な牙、複数の目、毛むくじゃらのタランチュラの頭だった。
亀×蜘蛛な生物など前代未聞だ。

「う、うお!」

甲羅が暴れ出し、木場も思わず手を離した。
その甲羅から出てきた手足は、頭と同じく蜘蛛のすらりとした脚。
そして出てきたのは尻尾ではなく、糸を出す蜘蛛の腹だ。

「ひいあああああああああ!」

のろまな亀のイメージと異なり、その亀は素早い。
細長い脚でスタスタと床を走り回っている。
あまりのおぞましい光景に後輩は半狂乱になりながら沈砂池から逃げていった。

「なんなんだよ、これ…?」

後輩の後を追うように木場も逃げ出した。
こんな化け物がいる場所になどとてもいられない

※ ※ ※ 木場宅 ※ ※ ※

「疲れた…。」

結局あの後上司に報告の後、中央監視室での勤務のみさせてくれた。
後輩はとてもじゃないが務められる状態ではなく早退した。

「信じてくれるわけないよな。」

いくら亀と蜘蛛の合成獣を見たと話したところで上司からは『ふざけてるのか』、『下水処理場に化け物などいない』の一点張りだ。
確かに正気とは思われないだろう。

「はあ、かわいい…。」

あまりの疲労でゲームをする気にもならない。
木場はベッドで寝そべりながらスマホで猫動画の鑑賞をするのだった。

「ん?」

今、急上昇中の動画が木場の目に留まった。
人気Youtuberによる奇妙な生物を捕まえたという現在生放送中の動画だ。
早速、木場はその動画を開いた。

”ついにやりました!ここ最近、奇怪生物の目撃例に多発するこの街に私は赴き…。”

「うちの街じゃないか。」

動画タイトルから判別するにYoutuberが生放送をしているのは間違いなく木場が暮らしている街の公園だ。
Youtuberはケージに一匹の犬を入れている。
そして彼はカメラをケージへと近づけ、犬を棒でつついた。

「なんだこれ…。」

木場は思わず携帯を食い入るように覗き込んだ。
その犬は体から光を放ちだしたのだ。
つつかれたことに怒り、まるでネオンサインのようにように体毛の一部を光らせて吠えている。

”こんな犬、いやこんな化け物見たことありません!そして何より臭い!臭すぎる!”

動画は大盛り上がりだ。
わざとらしく鼻をつまみ、犬を馬鹿にしている。
再生数はうなぎのぼりだ。

「気分悪いな。」

見てて気分のいいものではない。
一匹の動物の尊厳が侮辱されているのだ。
しかし動画の真の盛り上がりはこの直後に起こった。

”ほんとうに臭い!一体どこの神様がこんな化け物を生んで…。”

「ん?」

ケージから目を逸らしてるYoutuberは気づかなかった。
だがケージが映っている動画を視てる一部の視聴者は気づいた。
犬がケージの隙間に頭を押し込んでいる。本来は無駄な努力の筈だが、その犬の体はまるで軟体動物のようにその体を縮ませて抜け出ようとしている。
すでに体の前半分まで及んでいた。

「逃げろ!」

動画に向かって叫んだところで伝わりはしない。
犬はその体の前足をケージ外の地面に突き立て、一気に外へ出た。

”うわああ!”

動画の書き込みでYoutuberは気づけた。
背後の怪物が解放されつつあることに。
Youtuberは寸でのところで、犬の攻撃をかわした。

”あ、あああ…。”

「やべえ…。」

犬は体を光らせYoutuberを怒りの形相で睨みつけている。
ただでは済まされない。あれほど怒らせ、笑いものにしたのだから。
動物虐待動画は、処刑動画へと変わろうとしている。

”よせ!”

その時、1人の男が犬と実況者の間に入った。
レインコートの男だ。

”こっちに来い!”

するとレインコートの男に従うように犬は彼についていった。
実況者は一命をとりとめたようだ。

”か、彼は一体何者なのでしょうか?”

大した根性である。
そして腰を抜かしていた実況者は固定していたカメラを取り外し、彼を追いかけた。

”マンホールを開けています!”

追いかけるとレインコートの男は道路にあるマンホールを専用器具で開けていた。
開け終えるとなんとそこに犬は飛び込んだのだ。

”待ってください!あなたは一体!?”

実況者はもう走れる余裕はなかった。
マンホールまで来るとへたり込み、男の背中を夜の闇に完全に消えるまでカメラに映す以上の事は出来なかった。

「あいつ、どっかで見たような…。」

実況者を助けた謎のレインコートの男。
木場はその姿に見覚えがあった。
謎の怪物、命の危機、ヒーローの出現。
こうして本動画は伝説的視聴数へと上り詰めた。

※ ※ ※  公園  ※ ※ ※

動画が取られた2日後、例の撮影が行われた公園で下水道管路調査の業者たちと共に木場は調査に来ていた。
動画があまりにもバズりすぎて、テレビにも取り上げられている。
この状況では公共機関も調査をせずに放置というわけにはいかない。
調査用のトラック付きで準備万端だ。

「一つ聞きたいんですがなんで私が同行するのに選ばれたんですか?私の仕事とは違うような…。」

「ある職員はあの化け物を見て早退したんですが木場さんはその後も平然と勤務していたらしいので適任だとあなたの上司から。」

「そうですか。」

業者はその理由を答えてくれた。
単に経験が一つ上回っていただけで面倒な仕事を押し付けられたようだ。。

「これですね。例のマンホールは。」

目的のマンホールに3人は到着した。
マンホールオープナーを使用し、数十キロもする重たいマンホールの蓋を開く。
さすれば人ひとりがやっと入れるはしご付きの狭い管が姿を見せた。

「マンホール内、安全確認よし。」

下水管とは本来、人間が住むのに適した場所ではない。
酸素や一酸化炭素の濃度を測り、太い管のついた送風機で強制換気も行った。
これで中に入れる

※ ※ ※ 下水管内 ※ ※ ※

はしごを下り、木場とベテラン業者は下水管内へと入り込んだ。
真っ暗だがベテラン業者は慣れた手つきで投光器を取り付け、安心できる明るさになっていく。
中腰にならねば頭をぶつけそうなほどに狭い管内、足首が浸る程の下水が流れてジメジメしてて、何より臭い。

「ひどい臭いですよね、木場さん。まるで体内みたいだ。」

「体内?」

ベテラン業者があげた例えに木場は首を傾げた。

「ええ。便、唾液、尿、汗。人は生きていく上でたくさんの臭い排泄物を出し、この下水道に流します。しかしこの臭いは元々は生物の体内にあった成分なんです。だからこの下水管のこの臭いに揉まれてるとまるで体内にいるかのような気分になる時があるんですよ。」

なんとも変わった考えを持っている業者である。
同じ仕事をいつまでもやっていると特殊な考えに至るものなのだろう。

「この臭いはただの雑菌ですよ。体内なんておかしな事をおっしゃられますね。」

「はは、そうですよね。」

「その通…、ん?」

木場が下水管を歩いていると、ある違和感に気づいた。
下水管の壁が妙なことになっている。無機質なはずの壁の一部がピンク色になっている。

「なんだこれ?」

木場はピンク色になった壁を触ってみた。
すると驚くことにプニプニと柔らかい。まるでかつて腸内カメラで見た腸壁のようだ。

「なんなんですか、これ?」

「え?こんなの見たこと…、ん?」

木場とベテラン業者がこの奇妙な現象を共有した時だった。
足元を流れる下水に異常な事が起こっていた。

「魚?」

下水で魚が泳いでいる。
一匹ではなく、何匹も。

「金魚に…、鯉に、熱帯魚もいる!」

数だけではなく、質も充実している。
淡水魚も海水魚も仲良く下水をスイスイと泳いでいるのだ。
酸素すらろくにない事もあるこの下水管の中を。

「どうなってるんだ?なんでこんなところで、こんなに生きていられるんだ?」

木場はビニール袋を取り出し、下水と一緒に一匹の金魚を中に入れてじっくりと観察した。
間違いなくこれは金魚だ。屋台で見てるものと同じだ。

「何が起こって…、うお!?」

咆哮だった。
まだ投光器を取り付けていない真っ暗な下水管からうなり声が聞こえてくる。

「引き上げた方がいいんじゃ…。」

「そうですね。」

木場と業者は意見が一致した。
異常は確認したし、サンプルも確保したのだ。
もう用はない。

「急いで!」

「は、はい!」

木場と業者は全速力ではしごへとたどり着いた。
後はこのはしごを登れば、この不快地獄から逃げられる。

「ん?」

はしごに足をかけた木場は大きな揺れを感じた。
そして揺れはさらに大きくなっていく。
下水道そのものを揺るがすような巨大な何かが接近しているかのようだ。
木場と業者は激しく揺るぐ下水道を見た。そして揺れが最大に達した時についにそれは姿を現した。

「うおおおおおお!」

アメリカなら発見例があるというがそれは都市伝説だ。なのでこれが初めての例となる。
下水道での、この動物の発見例は。

「ワニだ!」

ワニ。しかも6mクラスの巨大ワニ。
本来は積極的に人を襲う生き物ではない。
だが縄張りに入ってきたものには容赦しない。
この下水道はワニにとって縄張りなのだろう。ゆえにこのワニは遠慮なく襲い掛かるだろう。

「登って、早く!」

年齢的に若い木場が先に死に者狂いではしごを登った。
一瞬でももたつけばワニの歯糞となってしまう。

「大丈夫ですか!?」

地上で待機していた業者が木場の手を掴み、引っ張り上げてくれた。
次はベテラン業者へと手を伸ばす。

「ああああああああ!」

しかし時すでに遅し。
ワニは業者の長靴にかみついたのだ。

「助けて、助けて!」

木場も手伝い、2人がかりでワニに噛まれた業者を引っ張る。
しかし一ミリたりとも彼の体は上がってこない。

「頼む!子供がいるんです!」

家族の存在を伝えられ、木場はより一層力を込めた。
しかしワニの噛む力は世界一。重さは数百キロ。5人が一斉に引っ張ろうがこの重さと力には敵うはずがない。
この業者の噛まれた部分が上がってくることは決してない。

「ああっ!」

しかしそれは噛まれた長靴のみの事。
長靴はすっぽ抜け、業者はワニから解放された。

「早く早く!」

重さ数百キロの重しから解き放たれた業者はすぐさま引っ張り上げられ、地上へと帰還した。
そして二度と来るなと言わんばかりのワニの怒れる咆哮が地上へと轟くのだった。

「もうわけが分からない…。」

とりあえず死傷者はいない。
それだけが吉報だ。

※ ※ ※  下水処理場  ※ ※ ※

「で、これが唯一の成果ってわけか。」

下水処理場の水質検査室。
一匹の金魚が金魚鉢で泳いでいるのを上司は観察した。
さきほど下水道で得た成果だ。

「もっと褒めてください…。」

椅子でうなだれるは木場。
ついさっき死にかけたせいで疲労困憊だ。

「ちゃんと褒めてるだろ。やっぱりお前を行かせて正解だった。」

「正解だったじゃありませんよ!死ぬところだった!」

机を叩いて木場は怒りをぶつける。
ここで怒っておかないとまた行かされかねない。

「分かった分かった。もう下水道には行かせないから安心しろ。」

「約束ですよ。録音させてください。はい、もう一回。」

「分かった。もう木場は下水道に行かなくていい。」

木場はスマホを取り出し、しっかりと今の発言を録音した。
きっちり言質はとった。

「それよりなんでお前はまあまあ平気なんだ?蜘蛛亀を見た相棒は今日も休んでるってのに。」

上司が気になるのは木場がなんだかんだいって対応してるところだ。
現に死にかけたというのにきっちりと報告を上げている

「うーん。なんというか臭いですかね。」

「臭い?」

「はい。実はあの化け物と同じ臭いを出す猫に懐かれたんです。だからあの臭いを嗅いだら親近感が沸くというか…。」

人は未知を恐れる。
見たことない何かに、ありもしない妄想をゴテゴテとくっつけてありもしない怪物へと脳内で作り変える。
だが木場にとってあのヤモリ猫はもうただの猫だ。
そしてあの臭いを放ってる以上はあの亀も変な亀でしかない。
臭いは記憶を呼び起こすからだ。

「だとしたらなんか妙ですね。」

「何が妙なんだ、木場?」

木場が下水道で沸いた疑問。
それはこの金魚というサンプルがあるからこそ確信できる。

「これはただの金魚なんですよ。本当に。」

「そうだな。」

この金魚鉢に入ってる金魚は何の変哲もない金魚。
そこが問題なのだ。

「沈砂池の亀や、動画の発光犬みたいな珍獣じゃない。普通の金魚なんです。臭いけど。」

「そういえばそうだな。臭いけど。」

あのヤモリ猫も含め、これまで遭遇した臭い獣は異形だった。
だがこの金魚は金魚でしかない。共通点は臭いだけだ。

「なんか時間が経つごとに普通になってるような気が…。」

「とにかくこの金魚は重要なサンプルだ。解剖とか徹底的に検査されることになる。今日はもう帰って良いぞ。なんなら明日は休んでもいい。」

「大丈夫ですよ。それじゃお疲れ様で…、ん?」

ただの金魚のはずだった。
数秒前までは。

「ひれが…。」

金魚鉢を覗いてると、その変化は金魚に見る見るうちに起こった。
胸鰭がどんどん大きくなっている。

「うお!」

ひれが翼のようなサイズまで成長したかと思った直後、水生生物には起こり得ない変化が起こった。
金魚はその肥大化した胸鰭を、ハチドリのように高速で羽ばたかせて浮き上がり、金魚鉢から脱出したのだ。

「この!」

せっかくの貴重なサンプルを逃がすわけにはいかない。
木場は羽ばたく金魚を握りしめようとした。
しかしハチドリ金魚は鮮やかな動きで木場の手をすり抜けた。

「待て!」

金魚は待ってはくれなかった。
その華麗な舞うような飛翔で水質検査室から脱出したのだった。

「うわああ!」

「きゃあ!」

廊下から職員たちの悲鳴が聞こえてくる。
世界で唯一のハチドリ金魚に腰を抜かしてることだろう。

「どこがただの金魚だ!」

「そっちだって見てただけでしょ!」

あんな変化など予想できるはずがない。
上司は呆気にとられるのみだった。

「ああもう!せっかく捕まえたのに!」

「捕まえたのは私です!二度と下水道には行きませんからね!」

おかげで貴重なサンプルを失ってしまった。
せっかく謎を解く鍵になるかもしれなかったというのに。

「解剖なんて言葉聞いて進化して逃げ出したのかもしれませんね。ポケモンみたいに。」

木場は投げやりになりながら携帯を見るのだった。

「ん?」

猫の動画を開こうとしたところ、目を引くはまたしても急上昇中の動画だ。
面白そうなだけでなく、今の自分たちに大いに関係していた。

「ねえ。サンプル確保できるかもしれませんよ。」

木場は上司に名案を話した。

※ ※ ※  駅前  ※ ※ ※

この街で最もにぎやかなのは駅前だ。
百貨店、郵便局、映画館など多くの商業施設が集まって人がごった返している。

「世界の終わりが近づいている!政府が実験生物を使って我々を滅ぼそうとしているのだ!」

駅前の広場を十数人の怪しげな連中が陣取って拡声器でスピーチを行っている。。
かつて馬鹿げた妄想を抱いた者はたった一人で大したことなど出来なかった。だが今は同じ妄想を持った連中がSNSで集まれる。彼らは徒党を組み、馬鹿げた空論を崇め始め、集団で行動を起こせる。
陰謀論者である。

「このウサギを見よ!これこそ我ら庶民を滅ぼすために政府が解き放った獣だ!」

陰謀論者たちの中心にあるは檻だ。中には一匹のウサギが入れてある。
どうやら例の動画はきな臭い陰謀論者たちの目に留まり、この街の異形生物たちは彼らの妄想の格好の題材となってしまったようだ。

「近寄って嗅げ、この悪臭がその証だ!」

ただのウサギにしか見えないが大きな違いがある。
それは一般人、特に木場にとっては大きく分かる違いがある。

「よいしょ。はい、どいてください。」

木場は陰謀論者たちのパフォーマンスに群がる野次馬たちをは押しのけて一番前へと出た。
彼らの生中継を見て駆けつけてきたのだ。

「そこの君!わざわざ一番前に出てくるとはよい心がけだ!君も証明に加わるがいい!」

「え、あ、はい。」

わざわざ陰謀論者の方から木場に声をかけてくれた。
多少の躊躇いを感じつつも木場は陰謀論者たちが陣取る広場へと入っていった。

「さあ、嗅ぐがいい!この政府が放った魔物の異臭を!」

「はいはい。」

木場にとっては彼らの妄想など興味ない。
ただ単にこのウサギの臭いを確認したいだけだ。

「う!?」

脳を抉るかのようなすさまじい悪臭。
だがそれと同時に思い起こされる猫との蜜月の瞬間。
このウサギは間違いなく仲間だ。

「確かに。間違いありません。」

「そうかそうか!」

仲間が出来たと思い込んだ陰謀論者のリーダーは彼の背中を叩き、木場はそそくさと野次馬へと戻る。
陰謀論者たちが配るビラもしっかり受け取りながら群衆へと戻り、誰にも見られていないことを確認しながら電話をした。

「間違いありません。あのウサギはサンプルにできます。」

わざわざこんなうさん臭いステージに来たことには目的がある。
木場のこの電話を合図に、その目的は果たされた。

「そこの人たち!一体何をしているのですか!?この集会を行う許可は貰っているんですか!?」

「な、貴様らは誰だ!?」

陰謀論者たちはどよめいた。
警察官たちが一斉に集会へと割り込んできたのだ。

「はい、解散してください!いますぐ荷物をまとめて!」

「政府の犬め!」

いくら徒党を組んで無敵の気分に浸っていようが国家権力の前では無力。
すぐさま陰謀論者たちはステージを片付け始めた。

「このウサギの飼い主はあなたたちじゃないんですね。我々で預かります。」

次は保健所の職員だ。
彼らはいの一番にウサギの入った檻を確保した。

「おのれ!実験動物の存在を隠す気か!」

リーダーは暴れ回るも数人がかりの警官にあっけなく取り押さえられた。
他のメンバーたちは次々と彼を見捨てて去っていく。
なんとも薄いつながりだ。
集まっていた群衆も次々と警官たちに促されて、散り散りとなっていく。
集会は終わりだ。

「これでサンプルを確保だ。」

木場はその様を遠巻きに眺めていた。
市長も例の動画のおかげでこの悪臭動物騒動の解決に力を入れている。
木場が思いついた公共機関の連携によるサンプル確保作戦に市長も乗ってくれたのだ。
だが成功したかに思えたその時だった。

「ぐああ!」

「刃物だ!」

1人の警官がリーダーからたまらず距離を取った。
リーダーが隠し持っていた刃物を取り出して切りつけ、拘束から逃れたのだ。

「うわああ!」

「よこせ!」

リーダーは刃物を振り回しながら職員から檻を奪い取り、そして中のウサギを取り出して地面に叩きつけた。
そして生贄の儀式を行う司祭のように高々と刃物を振り上げた。

「一匹でもこの世から減らしてくれる!」

リーダーは全身全霊の力で刃物をウサギに突き刺した。
完全に絶命するように内臓が入っている胴体へ深々と。

「やったぞ!我が行いを称えたまえ!」

リーダーは偉業を成し遂げたかのように両腕を天へと突きあげた。
まるでラスボスを倒した主人公のように。

「サンプルが…。」

木場は嘆いた。
警官たちが次々と飛び掛かり、リーダーを押さえつけるももう後の祭り。
せっかく確保したサンプルが再び失われてしまった。

「見ろ!その刃を!ついてるのは血じゃなくて、どす黒いヘドロだ!それはウサギではない!」

木場は地面に落ちてるナイフを見た。
リーダーの言ってる事は確かだった。ナイフにつくは赤き血ではなく、べっとりとした黒い何かだ。
やはり重要なサンプルだったのだ。

「殺した!殺したぞ!臭くて汚い怪物をこの世から…!」

取り押さえられたリーダーが己の偉業に酔っているその時だった。
天変地異が起こった。

「地震だ!」

大地が震えている。
まるでウサギの死に怒っているかのようなタイミングで。

「いやああああ!」

「助けてくれ!」

男性はうずくまり、女性はベンチに街灯にしがみつく。
警官も、職員も、市民も立っていられない。
街が震えている。だが天変地異はまだ終わらなかった。。

「うわあああああああ!」

重たいマンホールの蓋が軽々と吹き飛ばされ、それは現れた。
触手だ。まるでクラーケンのような太くてぬめぬめとして蠢く、なにより悪臭を放つ、天にも届くような長い触手がマンホールから姿を現したのだ。

「まただ!」

触手は一本ではない。
街中のマンホールの蓋が次々と吹き飛び、次々と何十本もの触手が飛び出てくる。
その触手たちは街を埋め尽くさんほどに際限なく増えていく。

「どうなってんだよ!?」

木場は慌てふためく群衆の1人として、その光景を眺めるしかできなかった。
やがて触手はもうマンホールは残ってないほどに現れると次の行動を起こした。
人間など蟻のようにつぶせるであろう巨大触手の数々は横たえることも、振り回すこともせずにその長い身を天高くにまで伸ばしていく。

「空が覆われてる…。」

街中から天へと伸ばされた巨大な触手たちは駅前上空を覆いつくさんほどに集まると、織物のように幾重にも折り重なっていく。
やがてそれはある物を形成した。

「顔だ!」

顔。
巨大で、醜悪で、禍々しい怪物の顔が駅前上空に現れた。。
人々は自分の何百倍もあるまさに邪神、その暗黒の眼に睨みつけられ呼吸さえ忘れた。
無理もない。彼らは今、絶対的な死に睨まれている。今から呼吸する必要などないのだ。

「ぶあああああああああああああああああああああ!」

誰もが顔を伏せて、耳を抑えた。
顔はゆっくりとその口を開き、咆哮を始めた。
叫びは地の果てまでも届き、街を揺るがしていた。

「ぐうああ!」

「臭すぎる!」

爆音の後に来るは臭い。下水道そのものが深呼吸して吐きつけてきたのかと思うほどの毒ガスのような悪臭が駅前を呑み込み、更なる悲鳴が上がる。。
だが人々はもう鼻を抓むことすらできなかった。

「あ、ああ…!」

「助けて、神様!」

「早く逃げてください!」

陰謀論者は真の終末を前に漏らした。職員は生きるために祈った。警官は一人でも多くの人を逃がそうと誘導した。
だがそれももう意味はない。

「来るぞ!」

顔は口を開いたまま、大地へと接近してきたのだ。
今、駅前にいる者たちは感じているだろう。世界の終わりを。
まず終わるのはこの街、そして自分たちの命なのだということを。
まるで高層ビルが倒れてくるかのような圧力を携えて顔は地上に迫っていた。

「ああああああああああ!」

死を前に木場は考えた。誰のせいでこうなったかを。
元凶はあの実況者か、陰謀論者か、それともこんな作戦を考えた自分か。
世界が終わる責任の所在が誰にあるかを考え、人生の終わりを受け入れようとした瞬間だった。
彼が現れたのは。

「待って!」

レインコートの男だった。
彼はまるで上空の顔を制止するかのように両手を掲げた。
すると驚くべきことが起こった。顔の接近はピタリと停止したのだ。

「見て!まだ生きている!」

男はウサギを掲げて顔へと見せた。
微かだが確かにウサギは動いている。

「“胎内”に戻せば助かるよ!だからもうやめて!」

男は必死に、訴えかけるかのように叫んだ。
その数秒後、一本の触手が彼の持つウサギに巻き付いた。
そしてウサギを持ったまま、触手は飛び出していたマンホールへと引っ込んでいった。

「ありがとう。」

男は顔にお礼を伝えた。すると巨大なる顔を形成していた触手は次々とほどかれ、やがて顔は触手へと戻っていく。
その大量の触手たちもまた下水道へと戻っていった。
すると先ほどの天変地異が夢だったかのように元の駅前へとなった。

「助かったのか…。」

木場は今の自分が置かれている状況を確認した。
自分がまだ生きているという事だけしか分からないが。

「彼は?」

木場は見回した。
街を救ってくれたレインコートの男を見つけるために。
だがもうすでにその姿はない。

「見ろ、分かっただろ!世界の終わりが来るんだ!」

リーダーは逃げられなかった。
顔が登場する前に手錠をかけられていた。
延々と終末論を叫び続けていた。
そして駅前はしばらく悪臭に見舞われるのだった。

※ ※ ※  下水処理場  ※ ※ ※

「お疲れ様です。」

「はっ!」

木場は処理場を巡回する隊員へと挨拶すると、彼はしっかりと敬礼で応じてくれた。
あれから数日後、あの天変地異はついに国さえも動かした。
あの怪物たちに対処するため、この街に自衛隊が配備されたのだ。
国を挙げてサンプルの確保に勤しんでいるが成果はいまだない。

「ふう。」

あれからすっかり彼の日常は様変わりした。
“世界の終末”、“下水道に秘密の研究所”、“バイオハザード”、ありもしないデマがネットを駆け巡った。

『政府は実験をやめろー!』

陰謀論に動かされ、下水処理場に押しかけた群衆の声が聞こえてくる。
しばらくはやみそうにない。

「誰がお前らの汚物の処理をしてやってると思ってるんだ…。」

下水処理場は休むわけにはいかない。
もし休めば下水が滞り、街が汚物でパンクしてしまう。
立派な世界の循環器だということも忘れ、人々は非難してくる。

「仕方ないですよ。あんなことがあっちゃね。」

蜘蛛亀事件からメンタルを持ち直した後輩が声をかけてくれる。
この喧噪の中でも出勤してくるあたり、彼も大分逞しい。

「やっぱり猫飼えばいいじゃないですか。きっと癒されますよ。」

「自信がないんだ。」

木場の精神は大分すり減っている。
いっそ猫でも飼いたい気分だがまだその資格があるとは彼は思っていないようだ。

「おーい、沈砂池の見回りに行ってくれないか?」

沈砂池。
その言葉は後輩の悪夢の引き金を引いた。

「す、すいません!俺忙しいんで!」

「おいこら!」

後輩は逃げて残るは木場1人。
もう逃げ道はない。

「行ってくれないか、木場?隊員の方が同行してくれるそうだ。」

「はい…。」

※ ※ ※  沈砂池  ※ ※ ※

「何があろうとも私がお守りします。ご安心ください。」

「ありがとうございます。」

小銃を抱えた隊員と共に木場は階段を下りていた。
厳しい訓練を受けてきたのだろう。礼儀正しく、屈強な肉体を持っていて頼りになる者たちだ。
彼らならどんな魔物も排除してくれるに違いない。

「じゃあ何かあったら呼びますので。」

「はい。こちらも機械の不備があったらお呼びします。」

沈砂池に着くと2人は手分けして見回りを開始した。

「ふう…。」

木場は緊張を抑えながら警戒しつつ見回った。
ここ数日は怪物の目撃例はめっきり減った。それに隊員もいる。
大丈夫なはず。

「心配ない心配ない心配ない…。」

まるで念仏のように唱えて魂に刻む。
そう心配ないと。自分は死んだりしない。

「心配な…。」

木場の動きが止まった。
太いコンクリートの柱の裏にそれはいた。

「にゃー…。」

猫。
怯えている一匹の子猫。
木場が最も愛する動物が。

「お前もか…。」

猫は悪臭を放っていた。
臭覚を通じて思い起こされる異形や上空の顔。
間違いなくこの猫は奴らの仲間だ。

「こいつは化け物だ…。」

この猫は怪物の仲間。
だからすぐさま処理しなければならない。

「こいつは化け物…。」

すぐそこに自衛隊員がいる。
大声で呼べばこの化け物をあの小銃で片づけてくれる。

「こいつは化け物…。」

この猫のような化け物は世界に存在してはいけない。

「すみませーん!」

「はい!」

沈砂池に木場の声が響く。
隊員はすぐさま彼の元へ走った。

「どうしましたか!?」

怪物を発見したのか、命の危機か。
隊員が駆け付けるとそこには腹を抱えた木場が立っていた。

「う!?」

木場は悪臭を放っていた。
そして手を掲げて断言した。

「うんこを漏らしたので戻ります!」

木場はこの時、大きな物を失った。

※ ※ ※  下水処理場 外  ※ ※ ※

「出てきたぞ!政府の手先め!」

夕方。
荒れ狂う群衆が下水処理場から出てくる一人の男に罵声を浴びせた。

「臭えんだよ!てめえも化け物か!?奴らの仲間か!とっとと死ね!」

そして石も。
木場は鞄を抱えながら怒れる群衆の罵倒や投石から逃げ去った。

「よし、誰もいないな。」

木場は路地裏に入り、誰にも見られていない事を確認すると鞄を開く。
するとワインの栓を開けたかのごとく、一気に悪臭がまき散らされた。

「無事だな。」

子猫だ。
隊員や同僚たちにこの臭いはうんこを漏らしたせいと嘘をついてまで、服や鞄に隠して守った一匹の生き物。
この猫は怪物などではない。

「俺が飼ってやる。必ず守ってやるからな。」

とはいえ駅には行けない。
この悪臭では通報されかねない。
自宅まで徒歩で行くしかない。職場から電車で8駅の自宅に。

※ ※ ※  住宅街  ※ ※ ※

「はあ…。」

すっかり日は暮れて、街灯が道を照らしていた。
体力が落ちてるのと運動不足でフルマラソンを走り切ったかのように疲れて切っていた。
もうこれ以上足を動かせない。一歩進めるたびにそう思うも木場は猫のために歩いた。

「う…。」

木場は振り返った。
一人の男が後ろにいた。
これは初めてではない。三度振り返ったが三度とも同じ男がいるのだから。

「誰なんだ?」

男が後ろを歩いているのは帰路が同じだからという理由ではない。
普段やらない徒歩での帰宅と夜道のため木場は道に迷っているからだ。
完全に尾行されている。

「公安か、警察か、陰謀論者か?」

妄想が膨らんでいく。
最優先排除対象を無断で持ち歩く自分をただで済ますわけがない。

「いっそこいつを…。」

木場は鞄を見た。
この猫を差し出せば命だけは助けてくれるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった時、すぐそばに公園があることに気づいた。

「…!」

木場は残る体力を振り絞り、公園へ走った。
公園ならあれがあるはずだ。

「あった!」

公衆トイレだ。
木場はすぐさまトイレに駆け込み、トイレの個室へと入った。

「さあ逃げろ!」

木場は鞄を開き、子猫を取り出した。
そしてトイレに入れようとした。

「ここがお前の家なんだろ!さあ逃げるんだ!」

こここそがこの猫の居場所。
このトイレは下水道につながり、猫は家に帰れる。

「やめてください!」

「ひい!」

個室のドアが叩かれる。
今にも壊れそうなほどに勢いよく何度も何度も。

「逃げるんだぞ!」

木場は猫をトイレのそばに置くと、個室のドアを開いてタックルをかました。

「うわ!」

ドアを叩いた者は開かれたドアに驚き、木場の脱出を許した。
トイレから逃げた木場は一目散に走った。

「はあ、はあ、はあ!」

もうとっくに限界を迎えている体。
だがそれでも走った。自分が抱えている鞄に猫が入ってると思わせ、猫が逃げる時間を稼ぐために。
人生最後に猫のために正しいことができるなら本望だ。

「ぐあ!」

しかしもう足はついてこなかった。
木場は公園の出口でこけてしまった。

「大丈夫で…!」

「うわああああああああ、来いいいいい!」

木場は鞄を振り回した。
相手が誰であろうと一矢報いてみせる。
しかし尾行者の姿を見てすっかりその気は失せてしまった。

「にゃんこ!」

彼は必死に助けたはずの子猫を抱えていたのだ。

「頼む!そいつだけは助けてくれ!変わりに私を…!」

「落ち着いてください。こんなことになるなんて思ってなかったんです。僕はペットが欲しかっただけなんです。」

「ペット?」

その言葉、そして猫の様子を見て木場は我に返った。
子猫は彼に優しく抱きかかえられ、その頬を摺り寄せている。
そしてその尾行者の正体はこれで見るのが4度目になるレインコートの男だった。
男がレインコートを取るとそこには美青年がいた。

「う!」

やはり臭い。
この青年は間違いなくあの訪問者だ。

「臭いでしょ。この臭いのせいで僕は独りぼっちでしてね。だから僕は母さんにペットが欲しいって頼んだんです。そしたら次々と不気味な生き物が出来ちゃいましてね。それがあなたが見たヤモリ猫や蜘蛛亀だったんです。」

「猫のことをなんで知って…。」

少なくともヤモリ猫については誰にも話していない。
上司にも、自衛隊にも。

「そのせいでこんな騒動に陥るとは思いませんでしたよ。ウサギの件では肝が冷えました。母さん、本気で怒ってて必死に止めてどうにか落ち着いてくれましたよ。」

「母さんって…、あの顔が!?」

「はい。」

忘れもしない国を脅かした上空に出来た顔。
信じられないことにそれはこの青年の母親だった。

「人々は毎日、大量の体内の残滓を下水道に流すでしょ。そしたら下水道が体内みたいになって命を持ったんです。それが僕の母さん。」

「体内…。」

思い出すは業者と行った下水管の調査。
あのピンク色のプヨプヨになっていた管の壁はまさに体内そのものだったのだ。。

「あなたは救世主ですよ。もしこの猫が殺されたら母さんは今度こそ世界の仲間たちと手を組んで人類に全面戦争を挑む、って言ってましたからね。」

「私が…。」

青年は木場の偉業を称えた。
彼は猫を守り切り、人類と下水道生物との全面戦争を未然に防いだヒーローになったのだ。

「母さんが体内で進化や退化を何度も試行錯誤して世に出しても大丈夫な最高傑作であるこの猫を作ってくれました。まあ臭いだけはどうしようもないですけどね。」

木場は猫を見た。
完璧に猫だ。体も、仕草も、猫以外の何物でもない。確かにこれなら周囲からも不審がられない。
この猫は母が心血を注いで作った我が子に捧ぐ贈り物。

「これはこの猫と世界を救ってくれたお礼です。」

青年は携帯を取り出して操作した。
するとその瞬間、木場の携帯に着信音が鳴った。

「100万円振り込まれてる…。」

木場の口座に振り込まれるは100万円。
この青年がどんな仕事をしていて、どうやって木場の口座を知ったかは分からない。
だが彼もまた母親同様に特殊な力を秘めているようだ。

「それじゃお気をつけて。」

「ま、待て。」

木場は青年に声をかけた。
最後に伝えることがある。

「君は一人じゃない。私もいるから気軽に頼ってほしい。それとちゃんと猫の面倒を見るんだぞ。」

「ありがとうございます。何よりもこの子を大事にします。」

「にゃ~。」

こうして青年と猫は完全に夜の闇へと消えていった。

「ははは。」

悪夢のような日々であった。
だが問題は解決し、次第に収束していくだろう。
やがて忘れ去られ、全て元通りになる。

「よーし。」

しかし大きな変化がある。

「猫を飼うか。」

今の木場にはその資格がある。
命がけで猫を守ろうとしたのだから。

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